中曽根康弘
中曽根康弘(なかそねやすひろ、1918年5月27日 – 2019年11月29日)は、日本の政治家である。群馬県高崎市に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、1941年、内務省に入省した。第二次世界大戦中は海軍に入隊し、終戦時には海軍主計少佐として従軍していた。戦後は警視庁に勤務し、その後1947年の総選挙で民主党から衆議院議員に初当選した。以来、衆議院議員として20回当選し、岸、佐藤、田中内閣の閣僚や党の要識を務め、鈴木首相の後を受けて第11代自民党総裁となり、3度の組閣を行う。憲法改正を主張し、内閣総理大臣として三公社の民営化を実現するなど、内政・外交の両面で大きな影響を与えた。
初期の政治活動と憲法改正論
中曽根康弘は、当選当初から憲法改正を強く主張し、青年将校と呼ばれるようになる。民主党から初当選後、改進党に所属し、吉田茂内閣に対して反対の立場を取った。保守合同後は自民党に所属し、河野派に加わった。1959年には岸信介内閣の科学技術庁長官に就任し、初入閣を果たした。
中曽根派の立ち上げ
河野一郎の死後、中曽根康弘は自身の派閥を形成し、政権獲得を目指した。中曽根派立ち上げ以降、佐藤内閣で運輸大臣、防衛長官、田中内閣で通産大臣、三木内閣で自民党幹事長など要職を務める。1970年、初めて総裁選に出馬するが予備選で敗れた。
内閣総理大臣としての業績
1982年11月、田中角栄の後ろ盾をもらい、内閣総理大臣に就任した。中曽根は内政面での行政改革や緊縮財政を推進した。また、膨大な赤字を抱えていた日本国有鉄道(国鉄)、日本電信電話公社(電電公社)、日本専売公社の三公社の民営化を実現し、日本の経済構造に大きな影響を与えた。
行政改革審議会
行政改革審議会(正式名称は臨時行政改革推進協議会。略称は行革審。)は、1981年、鈴木内閣が発足させた第二次臨時行政調査会(臨調)の答申の後を受け、19836月、第一次中曽根内閣が83年6月に設置した。行政改革の方向を検討した。
臨調
臨調とは、臨時教育審議会といい、1984年、第二次中曽根内閣が設立した。教育改革のための首相直属の審議会で、1987年まで答申を4回提出した。
電電専売国鉄民営化
1985年4月、第二次中曽根内閣は、電電売会社を民営化して日本電信電話(NTT)・日本たばこ産業(JT)とし、第三次内閣は1987年4月、国鉄を民営化してJR、6旅客、貨物会社に分割した。
外交
外交面では、米国のロナルド・レーガン大統領と強い盟友関係を築き、防衛費の対国民総生産(GNP)比率1%枠の撤廃や、靖国神社公式参拝など、保守的な外交政策を推進した。
死んだふり解散
1986年、死んだふり解散とよばれる衆参同日選挙を行う。自民党は300議席を超える圧勝となり、自民党総裁として1年の任期延長となり、5年間におよび長期政権を担う。後継に竹下氏を指名して政権から退く。
後年の政治活動と引退
中曽根康弘は1987年11月に首相を辞任したが、その後も政治活動を続け、1989年、リクルート事件をきっかけに自民党を離党したものの、1991年に復党した。1997年には大勲位菊花大綬章を受章し、その政治的貢献が評価された。2003年11月、小泉首相から総選挙での出馬を辞退を要請される形で政界を引退した。
国家と世界の未来を見据え、常に国のあるべき姿を国民に問うていく姿勢は政治家の良心でございます。(中曽根康弘)