ヴァスバンドウ(世親)
ヴァスバンドウ(世親)は、4世紀から5世紀ごろにかけて活躍した大乗仏教の思想家・学僧である。アサンガの実弟で兄とともに唯識の思想を確立し、大乗仏教の多くの著作や注釈を著した。サンスクリット語ではVasubandhuと表記され、中国や日本の仏教史では「世親」の漢訳名で広く知られてきた。同時代の諸学僧たちから強く影響を受けつつも、『アビダルマコーシャ論』をはじめとする数々の論書を著し、その後の仏教学研究に多大な足跡を残した人物である。もともとは部派仏教の一派である説一切有部(Sarvāstivāda)に依拠していたとされるが、後年には大乗仏教の中でも特に唯識(Yogācāra)思想へと関心を移し、兄にあたる無著(Asaṅga)との共著や独自の論述を通じて理論的発展を牽引した。こうした思想的転換の背景や社会的影響は、インドのみならず中央アジアや東アジアの仏教界にも大きな波紋を広げ、後の仏教思想体系の基礎を形作ったといえる。
略歴
伝承によると、ガンダーラ地方に生まれたヴァスバンドウ(世親)は、若年より師の下で部派仏教の教義を修学し、卓越した才覚を示したとされる。特に説一切有部の教義を綿密に検討する過程で、『アビダルマコーシャ論』を著し、存在論や認識論に関する詳細な議論を展開した。彼の名声は各地に広まり、多くの弟子たちが集まってきたという。しかし、その後の思想的転機により、兄無著の教導を通じて大乗仏教の唯識派に傾倒していったと伝えられる。この転換は一部の保守的な僧侶から批判を受けたが、それを超えてより包括的な視点から諸法のあり方を論じる姿勢を確立し、今日まで残る膨大な文献と注釈に影響を与えたのである。
興福寺北円堂に無著世親像がある。運慶の傑作だ。今日で六回目くらい。昔から私は、無著は「救いようの無い人間を見つめる東洋の賢人」と思ってきた。対して世親が謎だった。しかし、やっとわかったかも。これは、「角換り腰掛け銀の研究の果てに遂に結論を見つけ、満足より悲哀を噛みしめている」のだ pic.twitter.com/sOB5brV9lL
— 戎棋夷説 (@pascal_api) May 6, 2022
思想的背景
部派仏教の伝統の中でも、説一切有部は万物の実体性を肯定しながら、その法の持つ性質を詳細に論じる特徴があった。だが、強固に見える存在も実は因縁によって構成された流動的なものであり、そこには恒常不変の自我が存在しないという仏教の基本教理が根底にある。こうした議論をさらに深める過程で、ヴァスバンドウ(世親)は「心のはたらきこそがすべてを映し出す」という唯識派の視点へ歩み寄っていったのである。この流れには、兄である無著の影響が非常に大きかったとも言われる。後期の世親は、『唯識三十頌』などの論書を通じて、外界は心の投影として存在すると説く唯識理論を確立し、以後の仏教哲学全般にわたる議論を牽引したとされる。
索達吉堪布
世親論師《三寶贊》:
南無三寶尊,無緣之法身,受用圓滿身,顯現化身前,恭敬而頂禮。清淨法性界,修行八聖道,聖教典籍前,恭敬而頂禮。一切諸菩薩,所有阿羅漢,及諸緣覺前,恭敬而頂禮。~2019/12/25 pic.twitter.com/T4CGYoMxjg
— ཁ་བའི་འུར་རྡོ། (@garwangnyima) February 12, 2025
唯識思想の展開
唯識思想においては、あらゆる現象を八つの識(アーラヤ識を含む)によって説明する枠組みが提唱される。この中でヴァスバンドウ(世親)は、実在論的な世界観と唯心論的な世界観との折衷を図りながら、以下のような段階的説明を重視した。
- 意識としての第六識:外界を整理・理解する主体として心が働くが、これもまた独立した実体ではなく、因縁によって成立する。
- 煩悩による染汚:第七識が「我」という錯覚を生む元となり、迷いの根拠になる。
- 種子を蔵する第八識:アーラヤ識に蓄積された習慣や潜在的傾向が、現象世界を心の内外に展開させている。
個々の認識対象(色・声・香など)を対象とする識:私たちが五感を通じて得る情報は、そもそも心の働きに基づいたものである。これらの識の相互作用によって世界は姿を現すが、それを絶対的な実体とみなすことは誤りであり、最終的には心の働きを明晰に見極める中で煩悩から解放される道が開かれると説くのである。
『倶舎論(ぐしゃろん)』
ヴァスバンドゥはアサンガの弟であり、はじめは上座部の仏典を研究し、『倶舎論(ぐしゃろん)』で大乗仏教を批判、攻撃したが兄の戒め(いましめ)により、大乗仏教に転じ、数多くの論書をつくって唯識派の基礎を築いた。
阿頼耶識(あらやしき)
すべての現象を生み出す心の根本的なはたらきのこと。唯識思想の中心原理といえる。人間は阿頼耶識(あらやしき)から発生する世界にとらわれているが、すべてが心の作用であることを悟れば、迷いの世界を脱することができる。
後世への影響
大乗仏教における唯識思想は、中国・朝鮮・日本など東アジア圏へも受容され、法相宗や華厳宗などさまざまな宗派の教義形成に寄与することとなった。中国では玄奘三蔵がインドに渡り、唯識の原典や注釈書を大量に漢訳する過程でヴァスバンドウ(世親)の論書が再評価され、法相学派の基礎理論が完成された。日本でも、興福寺や薬師寺において学僧たちが彼の著作を研究し、仏教理論の一大体系としてその解釈を深めてきた。一方、近代以降の仏教学研究においては、唯識派の文献批判や歴史的検証が進められ、世親の思想的変遷を再考する動きが活発化している。こうした再発見や再評価は、仏教における認識論の多面性を示すと同時に、人間の意識や存在論を問う学問分野においても広範な示唆を与えている。
瑜伽唯識の世親の立場から書かれた珍しい本。
名著!『世親の浄土論』山口益 – 如是我我聞 https://t.co/AyPH3WYBbv#はてなブログ #宗教 #仏教 #浄土真宗 #山口益 #真宗大谷派 #世親 #浄土論 #古書 #読書 #読了— 🦌鹿野苑🦌 (@luerenigma) February 19, 2025
関連諸文献
- 『アビダルマコーシャ論』:説一切有部の立場から諸法を解説した代表的論書
- 『唯識三十頌』:唯識思想を総括的に示した短頌で、多くの注釈書が存在する
- 『唯識二十論』:外界の有無に関する唯識派の立場を論証的に展開した作品
- 『摂大乗論』:兄である無著が起草し、世親が注釈を付したとされる大乗仏教の要綱