ユーゴスラビア紛争|セルビア人による民族浄化とNATO空爆

ユーゴスラビア紛争

ユーゴスラビア紛争とは、独裁者チトーの死去、求心力が失われたユーゴスラビアの過程で差別した内戦が起こった。1991年から約10年続き、大きな紛争が続いたが、民族浄化やイスラム教徒への虐殺が起こり、国際社会から批判が集中し、NATOが仲介した。

ミロシェビッチ
ミロシェビッチ

目次

旧ユーゴスラビア

第二次世界大戦直後に成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1991年以降、分裂し、1992年、セルビアとモンテネグロの二つの共和国だけで、新しく「ユーゴスラビア連邦」を形成した。このため、分裂前のユーゴスラビアのことを「旧ユーゴスラビア」と表現される。

一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの国境線

ユーゴスラビアとは、「南スラブ人の国」という意味である。「一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの国境線」という言葉で表されるように多様な側面を含む言葉で表現されている。また、旧ユーゴスラビアの紙幣は、セルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語の言葉が、それぞれラテン文字とキリル文字で表示された。

  • 国家:ユーゴスラビア
  • 文字:ラテン文字とキリル文字
  • 宗教:カトリック、セルビア正教、イスラム教
  • 民族:セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人他20以上
  • 言語:セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語
  • 共和国:スロベニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ
  • 7つの国境:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア
  • 紙幣:

民族

セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人他20以上で構成される民族は、各民族ごとにアイデンティティが生まれた。「ユーゴスラビア人だ」という意識を持つ人も一部はいたが、多くの人々が、自らが「セルビア人」や「クロアチア人」などと認識していた。また、ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦が始まると、セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒が互いに戦い、国家や民族の前にイスラム教徒というアイデンティティも生まれることになる。イスラム教徒は、セルビア人かクロアチア人とは異なる文化を生み出し、争いのきっかけとなった。

連邦共和国

旧ユーゴスラビアは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という名前の国で、第二次世界大戦でナチス・ドイツに支配されていたが、指導者であったチトーが多様な民族が住む旧ユーゴスラビアをまとめ上げ、共産党のパルチザンを率いて戦い、ヨーロッパでは唯一自力でしてドイツを追い出した。

社会主義非同盟中立路線

第二次世界大戦後、チトーは、共産党(その後、名前を「共産主義者同盟」と変更)による独裁政権を作った。その他の東ヨーロッパの国々とは異なり、ソ連と対立することも多く、ユーゴスラビアは、社会主義陣営にも資本主義陣営にも属さない社会主義非同盟中立路線を進んだ。

チトーによる統治

チトーの統治はそれぞれの民族に配慮した形で行われ、各民族の権利を認め、共和国と自治州を作り、対等な立場で連邦を形成するという絶妙なバランスで構成された。

チトー大統領
チトー大統領

全人武装

自治州は、共和国の中の一部ではあるが、共和国並みの権限が認められた。それぞれの共和国は独自の警察を保有するが、軍隊は連邦軍になる、という形をとった。また、チトーは、ナチス・ドイツとの戦争の経験から「全人民武装」を推し進め、高校生になると基礎的な軍事訓練を行い、武器の使い方を教え、自宅に銃を保管させた。ソ連などの外敵に対抗するためであったが、国内で民族対立が高まると、互いに武器をもって争う環境ができあがった。

チトーの死去

チトーはカリスマ性のある指導者で民族の共和を保っていた。1980年、チトーが死去すると、共和が保てなくなり、内戦に突き進むようになる。

任期制

チトーの死後、連邦大統領の任命に派閥争いが起こるため、連邦を構成している6つの共和国と2つの自治州の代表が、1年任期で交代で連邦大統領を努めた。しかし、わずか1年の任期は重大な職務を果たすことはできなかった。

民主化による影響

ソ連が解体したことで、東ヨーロッパ諸国に民主化が続き、多くが複数政党制を導入した。旧ユーゴスラビアも、複数政党制を取り入れ、1989年12月、共産主義者同盟の一党独裁を廃止した。共産主義者同盟の一党独裁によって動いてきた国内政治において、集権力が損なわれることとなった。共産主義者同盟は分裂し、さまざまな民族政党が乱立、ひとつの国としてのまとまりが失われた。

ミロシェビッチの登場

コソボで、民族主義者ミロシェビッチがセルビア共和国内で、セルビア人の民族意識を煽り、セルビアの民族主義が台頭するようになる。次第に過激になっていき、多数派であるアルバニア系住民を弾圧していった。

ミロシェビッチ
ミロシェビッチ

スロベニア・クロアチアの独立

ミロシェビッチに対して旧ユーゴスラビアの他の民族が危機感を抱くなるようになる。セルビア人による一方的な支配を恐れた他の民族は、独立に走って行く。1991年6月にスロベニア・クロアチアが独立宣言を行う。セルビア人を主体とするユーゴ連邦軍が軍事的圧力を加え、内戦化する。1991年10月、ヨーロッパ諸国が調停に入り、ヨーロッパ諸国の仲介がはいり、スロベニア・クロアチアは独立した。

クロアチア内戦

クロアチアが独立すると、そのクロアチア国内で、セルビア系住民が、クロアチアからの独立を求めて抗争を始め内戦化した。民族分裂が永遠と続いていくようになる。

旧ユーゴスラビア紛争
旧ユーゴスラビア紛争

ボスニア・ヘルツェゴビナの独立

1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。旧ユーゴスラビア連邦からの離脱に反対するセルビア人勢力は弾圧を加え、独立を支持するイスラム教徒やクロアチア人との内戦が始まった。セルビア人は、連邦軍の支援を得て軍事的に有利な戦いを進めた。ボスニア国内にセルビア人の支配地域を広げ、この地域とセルビア共和国を合体させた「大セルビア」を実現した。

民族浄化

セルビア人武装勢力は、民族浄化を行い、イスラム教徒の男性は殺戮し、女性は暴行してセルビア人の子どもを生ませる、という方法が各地で行われた。イスラム教は堕胎を認めていないため、民族浄化が加速した。目に余るような人権侵害がまかり通り、悲惨な状況が繰り返された。

NATOの軍事行動

民族浄化は、国際世論の批判が高まった。西ヨーロッパ諸国をソ連や東ヨーロッパから防衛するために作られたNATOが変質し、軍事力でセルビア人武装勢力の行動を止めさせる目的で利用されることになった。1995年8月には、大規模な空爆を開始しました。

ボスニア和平協定

NATOとの軍事行動に対し、アメリカが調停役をつとめ、1995年1月、ボスニア和平協定が調印された。ボスニア・ヘルツェゴビナは統一国家として存続した。イスラム教徒とクロアチア人の「連邦」側が51%、「セルビア人共和国」側が49%の領土を占める、国連の平和維持軍が駐留する、などというものであった。ボスニア・ヘルツェゴビナは、民族別に分けられて生活することになった。


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