ポルポト|20世紀最大の蛮行,カンボジアの悪夢

ポルポト

ポルポトはカンボジアで共産党政権を築いた政治家である。本名はサロト・サル。豊かな農民で、王室につながる家系であるため、貧しい農民の出身を装うために本名を隠し、カンボジアでは平凡な名前であるポルポトを名乗った。ポルポトとポルポト派が行ったポルポト革命はカンボジアを地獄と化した。ポルポトはベトナム軍によって追放され、敗走したジャングルの奥地で息絶えることとなった。

ポルポト
ポルポト

目次

生誕

生年月日は不明であるが、カンボジア中部コンポントム州プレクスバウ村の出身で、裕福な農家の子として生まれた。姉は国王の夫人の一人になり、兄は王宮に関わっていた。6歳で僧院生活を送っている。カトリック系の小学校や、ノロドム・シアヌーク中学校に学び、フランス語教育を受けた。

フランス留学

1949-52年、政府の奨学金を得てフランスに留学し、マルクス主義の影響を受け、フランス共産党に入党した。電気を学びにフランスに渡ったが、文学や政治の書物を好み政治活動にしたため奨学金は打ち切られる。カンボジアの共産主義の仲間と知り合い、共産主義活動を展開する。帰国後は、私立の高等中学校の教師になったが、カンボジア共産党に加わってゲリラ活動に入った。

ポルポト
ポルポト

僕は将来、革命組織を指揮する。その書記長となる。官僚たちを統制するのだ。(ポルポト)

中国の滞在

ポルポトは、ホーチミンルートを通って北ベトナムや北朝鮮、中国に滞在している。特に中国では、文化大革命中で、ポルポトは、「文化大革命」がめざした素朴な原始共産制の影響を受けた。後にカンボジアで政権をとると、原始共産制をめざし、より極端な形でカンボジア版の文化大革命大躍進政策を行った。

シアヌーク大統領

ベトナム戦争当時、カンボジアの国家元首だったシアヌーク殿下は、冷戦の中で、どちらにも属さない中立政策をとった。しかし、ベトナムからの侵攻を懸念したシアヌーク大統領は、ベトナム戦争では、アメリカ軍に追われた解放戦線がカンボジア領内に逃げ込むのを認め、カンボジア国内をホーチミン・ルートが通るのも黙認した。また、カンボジア国内の港に荷揚げされる物資が、国内を通って南ベトナムの解放戦線に届けられることも承認した。シアヌーク大統領本人は、共産主義を嫌悪していたが、国家の脅威のために妥協せざるを得なかった。

ロン・ノル首相によるクーデター

ベトナム戦争で苦戦していたアメリカは、カンボジアが聖域となり、ベトナム解放戦線にとっての安全地帯となっている現状が容認できるものではなかった。このためアメリカのCIAは、暗躍し、カンボジア政府軍の幹部によるターデターを画策する。1970年、シアヌーク殿下がモスクワを訪問中に、ロン・ノル首相によるクーデターがおこる。成功すると、ロン・ノル政権はアメリカと共同で、カンボジア領内にいる北ベトナム軍や解放戦線を攻撃した。

カンプチア民族統一戦線

クーデターにより祖国を追われたシアヌーク殿下は、中国政府の全面支援を得て北京に住み、。「カンプチア民族統一戦線」を設立。カンボジア国内で自ら弾圧していたカンボジア共産党と共闘して、反ロン・ノルの統一戦線を結成した。

内戦

カンボジアの農村地帯でのシアヌーク殿下人気を背景に、反ロン・ノルのゲリラ活動は、農民の支持を得て国内で勢力を伸ばした。また、ポル・ポトが率いるカンボジア共産党と、それを支援する北ベトナム兵が主導した。アメリカは、アメリカ軍がベトナムから撤退するためには、カンボジア領内にある北ベトナム軍の基地を叩く必要があると判断し、カンボジア東部で爆撃を繰り返した。アメリカの爆撃で民間人を含む人々が犠牲となり、結果的に犠牲を被った農村の若者たちが、ゲリラ組織に加わるようになりゲリラを増やした。カンボジアの内戦では50万人が死亡し、100万人を超える難民が生まれました。難民は首都プノンペンに流れ込み、首都の人口は200万人に膨れ上がったた。

プノンペン陥落

1975年4月17日、カンプチア民族統一戦線の軍隊は、カンボジアの首都プノンペンに突入し、ロン・ノル政権は崩壊した。アメリカ撤退後、ベトナム戦争を優位にすすめた北ベトナムはカンプチア統一戦線の支援にまわった結果である。ポル・ポト率いる共産党はカンボジアを掌握することになる。ポルポトは、首都プノンペンにとどまったロン・ノル政権時代の兵士や政府高官は、直ちに殺害した。

シアヌーク殿下の幽閉

反ロン・ノルの「統一戦線」の「顔」になっていたシアヌーク殿下は、ポル・ポト派にとっては不要となり、1976年4月、シアヌーク殿下は、王宮に幽閉された。

原始共産制

原始共産制とは、原始時代にはこういう共産主義の社会があったのではないかと理論的に想定されている社会のことをいう。あくまでも想定や仮定の理論。原始的な人間の社会では、あらゆる生産手段を共有し、生産されたものは平等に分配される社会があったとされた。ポルポトは原始共産制への回帰を目指した。生産性が低く、自給自足のため、全員が肉体労働に従事する社会で、貨幣は廃止され、宗教は禁止、寺院は破壊された。

文化大革命

ポル・ポトは、かって中国に滞在していたが、この時期は、毛沢東による文化大革命が始まる時期であった。ポル・ポトは、文化大革命に大きな影響を受け、毛沢東路線をカンボジアで極限まで推し進めた。

大躍進政策

ポルポトは中国の大躍進政策を模倣し、また極端な形にして農業政策を実践した。その結果、無策な農業政策、集団農業化、非専門家による無謀な感慨工事、極端な生産目標などのため飢饉は広がり、飢えや労働で多くの市民が死に絶えた。

ポルポト革命

ポルポト革命は悲惨な結果となり、カンボジアは地獄の様子をなした。知識層の虐殺、農業の崩壊、家族の崩壊、集団生活、こども兵士など、共産主義国の中でも過酷さは特別なものとなった。

  • 知識層(学者、学生、教師、文字の読める者)の虐殺
  • 農業政策の失敗による飢饉
  • 親から子どもを取り上げ、共同農場の強制
  • こども兵士、こども医者、子ども看守
  • 貨幣の廃止
  • 宗教の禁止

粛正

ポルポトはソ連の独裁者スターリンと同様、党内や国内に次々に「敵」を作り出し粛清していった。自分の失策の原因を党内や国内の敵による妨害と疑心暗鬼にかられていた。

カンプチア救国民族統一戦線

カンボジアがベトナムに侵攻すると反撃を開始した。ポルポトからベトナム逃げ込んだ、元カンボジア軍の将校らがヘン・サムリン議長主導でカンプチア救国民族統一戦線を結成していたが、カンプチア救国民族統一戦線はベトナムに救援を求める形で、1978年12月、「要請を受けた」ベトナム軍兵士10万人が、カンボジアに侵攻した。

ベトナム軍の侵攻

ベトナム軍の本格的な侵攻によりわずか2週間でポルポト政権は崩壊する。ポル・ポト軍はポル・ポトによる粛清、国民の飢饉飢のため戦争できる状況ではなく、。むしろ、ベトナム軍に助けを求めた国民が大多数であった。ここで3年8ヵ月間のポル・ポト政権は終焉し、ポルポトはジャングルへ逃げ込み、ゲリラ戦を展開した。

ヘン・サムリン政権

ベトナムの支援のもと、ヘン・サムリン政権によるカンボジア再建が始まったが、行政機関も破壊され、通貨もなく大変厳しい状況であった。。

ポルポト派の再興

王宮に幽閉していたシアヌーク殿下を中国に避難させ、再び統一戦線民主カンボジア連合政府を組んで、名目上のトップにすえた。ポルポトによる虐殺を棚上げにして中国とタイは支援に回ることとなる。中国にとっては、中ソ対立の中でソ連に近いベトナム、タイにとっては、インドシナ半島で勢力拡大するベトナムを抑え込むために、ポル・ポトを利用した。ポル・ポトは、タイの難民キャンプに逃げ込んだカンボジア難民たちを組織して、軍隊に再編成し、ベトナム軍やヘン・サムリン軍が追ってくれば、タイに逃げ込み、武器と弾薬は、中国に頼るというゲリラ戦を展開した。中国やタイがポルポトを支援することによって、カンボジア内戦が勃発した。

ベトナムのカンボジア撤退

1989年9月、ベトナム軍はソ連の援助が終わると負担となっていたカンボジアから撤退した。しかし、このときはヘン・サムリン政権はベトナムの支援を受けて独自に戦える戦力を養成していた。なお、カンボジアへのベトナム侵攻は、ポル・ポト軍との戦闘で5万人の兵士が死亡した。

カンボジア和平

ベトナムの撤退を受け、カンボジア和平の機運が高まることになる。国際社会は、直接当事者のカンボジア人に和平を実現する力がないことから、国連が一時カンボジア人から主権を取り上げ、暫定的に統治する方法を模索することになる。

ポルポト
ポルポト

死去

ポル・ポト派は、いったんは選挙に協力する姿勢を見せながら、結局はボイコットし、その後も国内でゲリラ活動を続けた。しかし、中国やタイからの支援も途絶え、仲間割れを起こす中で、1998年4月、ポルポトは、ジャングルの中で病死しました。まもなく残存部隊も投降し、ポル・ポト派は壊滅した。


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