ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争とは、前431~前404に古代ギリシアで起ったアテネ中心のデロス同盟と、スパルタ中心のペロポネソス同盟との戦争である。アテネはペリクレスの病死後、その民主主義の下、衆愚政治に陥り、ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北した。ポリス社会が崩壊に向かう契機となった。
ペロポネソス戦争の開戦
アテネがしだいに支配権を強化していったのに対して、デロス同盟に加わらず、従来からあったペロポネソス同盟を守っていたコリントやスパルタはこれに脅威をおぼえ、コリントとアテネの間の紛争をきっかけにギリシア=ポリスは2大勢力に分かれて長期で大規模な戦争に突入した。
デロス同盟
前478年頃結成。ペルシアの再攻にそなえ、アテネを中心に結成された軍事同盟。最盛期にはエーゲ海周辺の約200のポリスが加盟したといわれる。本部はデロス島におかれた。加盟ポリスには、艦船・兵員が軍資金を提供する義務が課せられた。前454年以降は同盟の金庫がアテネに移され、アテネが他のポリスを支配する「アテネ帝国」に変質していった。
ペロポネソス同盟
前6世紀に結成されたスパルタ中心の軍事同盟ペロポネソス半島のほとんどのポリスが参加し、デロス同盟に対抗して、ペロポネソス戦争をおこした。
コリント
コリントはペロポネソス半島北東部にあったポリスである。海軍・商業貿易でアテネと対立していた。スパルタとともにペロポネソス同盟の中心的役割をになう。ペロポネソス戦争では、スパルタに働きかけて開戦を推し進めた。
スパルタ王アルキダモス
開戦と同時にスパルタ王アルキダモスは、ペロポネソス陸軍を指揮して、アテネ領へ侵入を繰り返した。侵略は繰り返され、最初の10年間の戦争(前431年~前421)をアルキダモス戦争とよばれる。
ペストの流行
当初はアテネ率いるデロス同盟が、ペリクレスの指導のもとに優勢であった。開戦2年目に田園への攻撃を逃れて家屋を放棄し、食料は輸入、市民を城壁へ籠城、海軍だけの攻撃だけで敵地を攻撃する作戦をした。ペストが流行し、人口の3分の1を失い、ペリクレスもまたペストのため死亡する。その後、アテネとスパルタの衝突は長期化し、ペルシアもそれに介入、対立は深刻化する。
戦争の長期化
スパルタは陸軍を中心として構成しており、アテネは海軍を中心とした軍隊であった。そのため、正面から衝突することはなく、無駄に戦争の長期化が行われた。
衆愚政治
アテネ国内の政治をリードしたのは富裕な商人や手工業者の政治家で、彼らは好戦的な民衆に迎合し、無意味に戦争を長期化させた。クレオンやアニュトスなどの政治家がその中心であったが、デマゴーゴス(扇動政治家)である。こうしてアテネの民主主義は堕落の一途をたどった。前421年、ニキアスの和約により一時平和状態が実現したが、好戦的アルキビアデスの扇動により、戦争が再開された。
デケレイア戦争
アルキビアデスの勧告に伴い、デケレイア戦争が勃発、アテネ領内の要地を占領した。前412年には、ペルシアと同盟を結び、アテネ海軍を襲撃した。前405年、アイゴスポタモイの開戦で全滅に近い打撃を受けたアテネは、陸も海もスパルタに包囲される。
アテネの敗北
アテネの内政では、民主派と寡頭派が分裂がおこり、混乱状態に陥る。さらにペルシアの後援を得た海軍を増強したスパルタに追い込まれ、海陸両方を包囲、前404年にアテネは降伏した。
ペロポネソス戦争後
ペロポネソス戦争後、ペルシアは後援したにもかかわらず、スパルタの強大化を嫌い、アテネの復興に援助を行った。アテネでは民主政が復活し、農民たちも自営力を回復する。一方、スパルタは同盟関係にあったコリントなどのポリスの離反にあう。前356年、再びペルシアと和約を結び、ギリシアにおける指導権を確保しようとした。