ペルシア戦争|ペルシアの侵攻とアテネの抵抗,世界史

ペルシア戦争

ペルシア戦争とは、紀元前5世紀前半から中頃にかけて繰り広げられたアケメネス朝ペルシアアテネを中心とする古代ギリシアのポリス同盟との戦争である。前480~前479の3回にわたるペルシアの侵攻を、古代ギリシアが撃破した。前449年のカリアスの和約で最終的に終結した。これをきっかけに古代ギリシアポリスアテネを中心としてデロス同盟という同盟を結ぶが、デロス同盟を足がかりにアテネはエーゲ海の支配権を強化する。

主な戦場となったのはアテナイをはじめとするギリシャ連合側が拠点を構えたバルカン半島南部やエーゲ海一帯であり、東西の強大な勢力同士が正面から対峙した点が大きな特徴である。最初の衝突は、アケメネス朝のダレイオス1世によるギリシャ方面への遠征に端を発し、特にマラトンの戦い(紀元前490年)が有名である。その後、ダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世が大軍を率いて侵攻し、テルモピュライの戦いやサラミスの海戦が繰り広げられた。いずれの戦いも、ギリシャ側の協調や海軍力による作戦の妙が功を奏し、アケメネス朝は最終的にバルカン半島からの撤退を余儀なくされた。こうした一連の戦争でギリシャ側は勝利を収め、ポリス同士の団結や軍事力の発展が進むこととなった。

背景

ペルシア戦争以前のギリシャ世界は多くのポリスが並立し、それぞれ独自の政治体制や軍事組織を有していた。アテナイやスパルタといった大国と小規模ポリスが混在し、相互の連合や同盟、時には対立も見られた。一方のアケメネス朝ペルシアは、現在のイラン高原を中心に急速に領土を拡大し、エジプトや小アジアのギリシャ植民都市まで支配を及ぼしていた。特に小アジアでの圧力が強まったことで、これらの都市が反乱を起こし、同じギリシャ系のアテナイが支援に乗り出したことが対立激化の発端となった。ペルシア帝国は自らの影響圏拡大を目指してギリシャ本土へ干渉を強化したため、各地のポリスが連合軍を組織して迎え撃つ構図が成立したのである。

主要な戦い

  • マラトンの戦い(紀元前490年):アテナイ軍が奇襲的な攻勢をとり、上陸してきたペルシア軍を撃破。短時間での決着が後のギリシャ連合の士気を高めた。
  • テルモピュライの戦い(紀元前480年):スパルタ王レオニダス率いる少数部隊がペルシアの大軍を迎撃。善戦の末に壊滅したが、全土の抵抗意識を高めるきっかけとなった。
  • サラミスの海戦(紀元前480年):テミストクレスの巧みな作戦により、狭い海峡へ誘導されたペルシア艦隊をアテナイ中心のギリシャ海軍が打ち破った。
  • プラタイアの戦い(紀元前479年):スパルタやアテナイなどの連合陸軍がペルシアを決定的に撃破し、ギリシャ本土防衛に成功した。

ペルシアのイオニア侵攻

古代ギリシアは東方のオリエント諸国とは密接に交流していたが、ペルシアの領土拡大政策は、西方側に進出し、ギリシアとの関係が深かったリディア王国を占領、小アジアのイオニア都市を支配するに至った。ペルシアはギリシア都市に僭主政をもたせようと圧力をかけ、これに反発したイオニア諸市はミレトスの僭主アリスタゴラスA(前6世紀末ー前5世紀初)の主導のもとに前499年、反乱をおこしたが、力及ばず沈静された。

ミレトス

ミレトスは、イオニア植民市の反乱の中心となった都市である。古くからアテネと友好関係にあったが、前494年ペルシアによって占領され、破壊された。

アテネの援軍

ペルシアの専制的支配に対して民大きく反発したアテネは、イオニアの反乱軍に援軍を送っていたため、ペルシアのダレイオス1世Dはギリシア進出に着手し、ここからペルシア戦争が始まる。

第1回の遠征

前492年、ダレイオス大王は、ギリシア本土にフェニキア人を中心とする遠征軍を送ったが、海軍がアトス岬沖で難破したため、失敗した。

第2回の遠征 マラトンの戦い

前490年に第2回の遠征がおこなわれた。ダレイオス大王が派遣したペルシア軍はトラキア・マケドニアを征服し、アッティカのマラトンに上陸した。ミルティアデス(前550頃~前489)が指揮官としてこれを迎え討ち、アテネは1万の重装歩兵軍でペルシア軍を破り、海へ押しもどした。ペルシア軍はアテネを攻撃しようとしたがミルティアデスの作戦で撃退され、帰国せざるをえなかった。この勝利をアテネに伝えた伝令の故事(伝説)が、マラソン技の起源とされる。

第3回の遠征

前480年、ペルシア軍の新しい王クセルクセス1世(位前486~前465)は、史上最大といわれる約20万の歩兵を動員し第3回の遠征をおこなった。ギリシア軍はアルテミシオンの海戦で敗れ、陸ではテルモピレーでレオニダス王以下のスパルタ兵とテスピアイ兵が全員戦死するなど苦戦が続き、アッティカもペルシア軍が占領した。

サラミスの海戦

前480年、アテネのテミストクレス(前528頃~前462)は市民全員を船で避難させ、巧みな戦術でペルシア艦隊をアッティカとサラミス島の間のサラミス湾に誘いこんで全滅させた。これをサラミスの海戦という。

プラタイア(プラテーニ)の戦い

プラタイアの戦いとは、プラタイアでスパルタアテネを中心とする連合軍がペルシア陸軍を撃破した戦いである。ペルシア戦争におけるギリシア側の勝利が確定した。

イオニアの独立

サラミスの海戦、プラタイアの戦いに続いて、北方や小アジアでもペルシアを破ってイオニア都市も独立を回復した。ここに古代ギリシアはペルシア戦争に勝利を行う。

テミストクレス

テミストクレスは、前528頃~前462アテネの政治家である。サラミスの海戦でギリシア艦隊を指揮し、たくみな作戦でペルシア艦隊を破った。サラミスの海戦では、アテネはデルフィの神託により、「木の砦」で戦えとの指示を得たが、テミストクレスはこれを、市民が船で避難することだと主張し、サラミスの海戦の転機となった。その後、オストラシズムによって追放されることとなる。

三段櫂船

三段櫂船とは、上中下3段に並んだ漕ぎ手が櫂を使って動かす古代の軍船で、アテネでは、ペルシア戦争で漕ぎ手を務めた無産市民の発言権が戦後に増大した。

僭主のヒッピアス

ペルシアにはアテネから亡命した僭主のヒッピアスがうけいれられており、ヒッピアスがペルシアを後ろ楯にアテネの支配権の奪回をめざしていることもアテネを危惧させた。

デロス同盟

ペルシア戦争後も、ペルシア古代ギリシアへの支配欲は劣らなかっため、アテネを中心にポリス間の同盟が組まれた。デロス島にが本部が置かれたため、デロス同盟と呼ばれる。

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