マシュー・カルブレイス・ペリー Matthew Calbraith Perry
ペリー(1794.4.10–1858.3.4)はアメリカの軍人で、東インド艦隊司令長官を務めた。江戸末期の日本にたいし、黒船と呼ばれる軍艦で来航した。江戸幕府にたいし開国を要求した。砲艦外交と呼ばれる、圧倒的な軍事力を背景にした恫喝的な外交を展開した。この要求にたいし、老中・阿部正弘や林大学頭復斎がその交渉に苦心している。1854年、日米和親条約を締結する。
目次
生誕
1794年4月10日、アメリカ・ロードアイランド州ニューポートの資産家で海軍大佐の父クリストファーと母セーラの三男として生まれる。1809年1月、わずか14歳で海軍士官候補生の辞令を受け、1813年7月には海軍少尉に任官海軍に入隊する。翌年の1814年12月、ニューヨークの資産家の娘ジェーン・スリデルと結婚する。
ニューヨークの海軍基地司令官
海賊退治や諸外国との折衝などで功績をあげ、1833年、ニューヨークの海軍基地司令官に就任し、その4年後にはアメリカ海軍の最高位である大佐に昇進。さらに、1841年9月、ブルックリン海軍工廠長に就任すると、ニューヨーク港内の全艦の司令官にも任ぜられ、「提督」の称号を得た。そして旗艦ノース・カロライナ号に初めて青い提督旗を揚げることがでた。
東インド艦隊司令長官
1852年3月、ペリーは東インド艦隊司令長官の就任とともに日本遠征を命令された。ペリーは日本の研究について在蘭公使から資料を取り寄せたり、捕鯨のために日本近海に行ったことのある捕鯨船の船長から話を聞くなどして情報を収集した。さらにシーボルトの『日本』、ゴローニンの「回想」などで蓄積した知識をもとに日本との外交交渉を行った。
日米和親条約
1853年7月8日、幕府の支持を無視し、長崎ではなく、江戸に近い浦賀沖に来航する。7月14日に久里浜まで上陸、艦隊の射程距離に入り、江戸は混乱した。アメリカ大統領の親書を日本に渡すと、返答の期日を翌年5月にし、7月17日に日本退去する。
1854年2月13日、ロシアのプチャーチンの来日をうけ、9隻の艦船を引き連れ、二度目の浦賀に再来する。3月31日交渉の上、日米和親条約を締結した。この間、箱館・下田で日本との様々な協議をする。6月28日下田港から日本退去、那覇、香港を経てヨーロッパ経由で帰国した。
ペリーの要求
- 漂流民の保護
- 外国船への燃料や食料の供給
- 貿易の開始
砲艦外交
ペルーは交渉に当たる際、砲艦外交(恫喝外交)を行った。まず最初に50発以上の〝祝砲〟をあげた。加えて交渉が決裂した場合、戦争になることを伝え、当方は近海に50隻の軍艦を待たせており、カリフォルニアにはさらに50隻の軍艦を待たせていると恫喝した。黒船艦隊が大砲を向けた上での交渉であった。
雷電伝信械(電信機)・小型蒸気機関車
ペリーは日本に雷電伝信械(電信機)や小型蒸気機関車を伝えた。電信線の一端は条約の会場に、もう一端を別の建物に設置し、英語・オランダ語・日本語を使って交信し、日本の人々を驚かせた。また、広場に線路を敷き、幕府の役人を乗せて小型蒸気機関車を走らせ、喜ばれた。
『アメリカ艦隊シナ近海および三遠征記』
『アメリカ艦隊シナ近海および三遠征記』はペリーのが出航から2年に渡る手記である。1855年1月ニューヨークへ帰国したあと、2年以上かけて公式報告書として『アメリカ艦隊シナ近海および日本遠征記』の編纂を行った。「世のどの地方においても、日本人のように気取りのない優雅さと威厳を備えた国民は見たことがない」、「実用ならびに機械的分野の諸技術において、日本人の卓越した手先の器用さと工業的能力の完全さは驚くべきものである」、「国との交流が進むことによって、日本は世界の最も恵まれた国々ど並ぶまでの水準になるだろう」など、日本を高く評価している。