ベルリンの壁
ベルリンの壁は1961年に西ベルリンと東ベルリンを隔てた壁で、高さは5M、全長は155キロにおよんだ。「ベルリンの壁」は西側からはコンクリートの壁だけが見えたが、実際には、その壁の向こうの東ベルリン側には100メートルもの分離帯が作られ、近づくものは殺害された。1989年10月、東欧全体が民主化していき、東ドイツもこの流れの中で壊された。この映像は世界中に広がり、冷戦の終焉の象徴となった。(参考:西ドイツと東ドイツ)
「私はベルリン市民だ」ケネディ
「その人がどこに住んでいようと、自由を愛するすべての人々は、ベルリン市民である。ゆえに私は、誇りを持って言う。私はベルリン市民だ」(1962年6月西ドイツ アメリカ大統領ケネディ)
ドイツの分裂
第二次世界大戦後、無条件降伏を行ったドイツは、西をアメリカ、フランス、イギリス、フランス、東側をソ連によって分断された。しかし、首都ベルリンに関しては例外で、共同統治された。しかしベルリンの首都の全体をどこが統治するかで、意見が対立することとなる。(参考:西ドイツと東ドイツ)
市長選挙
第二次世界大戦後、ベルリン市民による市議会議員選挙が行われた。選挙の結果は、親ソ連派の社会主義統一党の得票率が20%に対し、反ソ連派の立場の社会民主党が49%と獲得した。選ばれた市議会議員による選挙の結果、社会民主党の市長が選ばれたが、ソ連はこれを不服とし、結果、ベルリン市民全体の選挙で選ばれた市長は、アメリカ、イギリス、フランスの支配地域だったベルリン西部だけの市長に就任するにとどまることになる。
通貨問題
ソ連はドイツからの被害が大きかったことから搾取を徹底させた。特に通貨の発行を大量に行い、インフレリスクをドイツに押しつけた政策は穏健派の西側諸国(イギリス、アメリカ、フランス)との決裂を決定づけた。西側諸国は独自通貨を流通することで対抗したが、ソ連はベルリン西部を封鎖することで対応する。西ドイツの国民はこれを不満として、反ソ連、反共産党の立場を明確にした。
ドイツ連邦共和国
1949年9月、アメリカ、イギリス、フランスが占領していた「西側」のドイツが、ドイツ連邦共和国として独立した。
ドイツ民主共和国
1949年10月、ソ連占領地区の東側が、社会主義統一党の独裁のもとでドイツ民主共和国として独立しました。
ベルリン封鎖
ベルリンは、ソ連占領地区の中にあり、さらに東ベルリンもソ連占領地区にある。それゆえに西ベルリンだけが、ソ連占領地区の中に存在する「陸の孤島」となった。ソ連は、西ベルリンに対して、鉄道や高速道路を封鎖、さらに、電力、石炭、食糧、原料の供給も停止した。これを受け、西ベルリンの約5万人の市民は飢餓状態となる。
空の架け橋作戦
ソ連の暴挙に対して、西側諸国は不快感を示し、5万人の西ベルリン市民が必要な物資のすべてを、アメリカ空軍の輸送機で運ぶという「空の架け橋作戦」を展開した。ドイツ西部の三つの飛行場から、西べルリン市内の二つの飛行場に、物資をピストン輸送した。西ベルリンの空港の空地には、鉄板を敷き詰めて臨時の滑走路を建設、臨時の航空管制システムを整備して、一時は、輸送機を一分おきに飛ばすという大規模な空輸作戦を展開した。飛行回数はのべ27万7000回に達した。結果、西ベルリン封鎖から1カ月後の1949年5月にソ連は封鎖を解除、「空の架け橋作戦」は、1949年6月30日に終了した。
西ドイツへの脱出
社会主義理論にのった東ドイツ経営は失敗し、民衆は貧困に追い込まれた。しかし、西ドイツへの脱出は、国境に鉄条網や地雷が設置され、困難を極めた。そこで、一度、東ドイツ国内にあるベルリンに入り、西ベルリンへ移動、そこから鉄道や飛行機で西ドイツに亡命するという方法をとる亡命者が殺到した。東西ドイツの分裂以降、亡命者は、358万人の難民が東ドイツから西ドイツに流れたといわれている。
ベルリンの壁
この東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツのルートを使った亡命者が急増したため、、1961年8月13日日曜日、ソ連・東ドイツによってベルリンの壁の建設が始まる。ベルリンの壁は壁と鉄条網で東西に延びるよう、警察官や武装民兵隊1万3500人を動員して建造された。鉄条網は、やがてコンクリート製の頑丈なものになっていく。
射殺
ベルリンの壁は西側からはコンクリートの壁だけが見えたが、壁の向こうの東ベルリン側には100メートルもの分離帯があり、金網、溝、番犬、監視塔により監視下に置かれた。壁を乗り越えようと壁に近づく者は発見次第、監視兵に射殺された。実際に射殺した監視兵は表彰された。壁を乗り越えて西ベルリンへの脱出を試みる東ドイツの人たちはあとを絶たず、39人が警備兵に射殺された。
監視状況
分離帯には金網やケーブルが張られ、亡命者が横切ると足跡がつくよう広い砂地も置かれた。番犬が徘徊し、24時間、厳しい監視の下に置かれた。その数は、監視塔だけで302ヵ所、監視兵は1万400人、番犬600頭と言われている。
ベルリンの壁を超えた亡命者数
厳しい監視下のスキをみてベルリンの壁を超えて、5043人の人々が西への脱出に成功した。うち東ドイツの兵士574人である。
チェックポイント・チャーリー博物館
チェックポイント・チャーリー博物館には、旧西地区にあるベルリンの壁の資料が展示されている博物館である。東西ベルリンを陸路で行き来できた検問所「チェックポイント・チャーリー」から名付けられた。東ドイツの亡命者が、どんな方法で西側へ逃げたか、さまざまな手段が紹介されている。
ベルリンの壁の崩壊のきっかけ
1989年11月9日、東ドイツ政府は、国民が西ドイツへ簡単に旅行できる法律を設定した。この法律が発表されると西ベルリンへの旅行希望者がベルリンの壁へ殺到することを予測し、警備体制を整えるため、翌日の午前4時に発表すると決めていた。当時、東ドイツ政府報道官のシャボウスキーは、法律設定直後に発表すると誤解し、1989年11月9日午後7時に、我々は東ドイツ国民が国境を越えて出国できると報道、その報道を見た東ドイツ国民がベルリンの壁に次々と集結し、興奮した国民は壁を壊し始めた。結果、1990年10月3日にドイツの統合が行われた。