フィウメ|列強が争奪した港湾都市

フィウメ

フィウメは、アドリア海北部クヴァルネル湾に位置する港湾都市であり、現在のクロアチアの都市リエカにあたる。中世以来、ドナウ流域と地中海世界を結ぶ重要な海の出口として機能し、近代にはハプスブルク帝国およびハンガリー王国の対外貿易港として発展した。第1次世界大戦後にはイタリアとユーゴスラヴィア双方が領有を主張し、「フィウメ問題」と呼ばれる国際政治上の争点となり、民族自決と戦後国際秩序の矛盾を象徴する都市として知られる。

地理と名称

フィウメという名称はイタリア語で「川」を意味し、市内を流れるルジャニツァ川に由来する。クロアチア語ではリエカと呼ばれ、同じく「川」を意味する。アドリア海の奥深くに位置する天然の良港であり、背後には中欧・バルカンへ向かう交通路が伸びるため、ハプスブルク家の支配下で軍事的・商業的に重要視された。多民族が居住し、イタリア系住民、クロアチア系住民、ハンガリー人、ドイツ人などが共存する港町であった。

ハプスブルク帝国とハンガリーの直轄港

近世以降、オーストリア=ハンガリー帝国の拡大にともない、フィウメはハンガリー王冠領の「コルプス・セパラトゥム(分離体)」として特別な地位を与えられた。すなわちハンガリー議会の管轄下に置かれつつも、自治的な都市として港湾経営を担ったのである。19世紀後半には鉄道網が整備され、ブダペストや中欧諸都市と結びつくことで、穀物・木材・工業製品が出入りする拠点港となった。都市の経済発展はイタリア語を話す市民層の台頭をもたらし、イタリア民族運動と結びついた自治要求が強まっていった。

第一次世界大戦後とフィウメ問題

第1次世界大戦で同戦争が終結し、民族自決の原則が掲げられると、フィウメの帰属は大きな国際問題となった。イタリアは戦時中のロンドン秘密条約では獲得を約束されていなかったにもかかわらず、多数派がイタリア系であることを理由に併合を主張した。他方、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(のちのユーゴスラヴィア)も、自国のアドリア海への出口としてこの港を求めた。講和会議で妥協案が模索されたが、いずれの民族も譲歩を拒み、「フィウメ問題」はパリ講和体制の不安定性を示す事例となった。

ダンヌンツィオの占領とカルナーロ憲章

1919年、イタリアの詩人で民族主義者でもあったガブリエーレ・ダンヌンツィオが義勇兵を率いてフィウメを占領し、自ら「カルナーロ摂政国」を名乗った。彼は独自の憲法であるカルナーロ憲章を制定し、コーポラティズム的な組合組織や指導者へのカリスマ的忠誠を強調する政治実験を行った。この統治形態はのちのファシズムやムッソリーニ政権を先取りする要素を多く含み、黒シャツ隊の行進や政治的儀式など、イタリア・ファシスト運動の象徴的なスタイルの源泉の一つとされる。

自由市フィウメとイタリアへの編入

ダンヌンツィオ政権はイタリア政府との対立の末に武力で排除され、その後1920年のラパッロ条約によってフィウメは自由市として独立することになった。しかし、この自由市は経済基盤が脆弱で、国内政治も不安定であったため、1924年のローマ条約でイタリア本土への編入が正式に決定された。一方、背後のスュシャク地区はユーゴスラヴィア側に帰属し、港湾と後背地が分断されるという不自然な国境線が生じた。同時期に展開したギリシア=トルコ戦争やローザンヌ条約とあわせてみると、戦後ヨーロッパにおける領土再編の妥協と不満の連鎖が理解できる。

第二次世界大戦後の帰属と現在

第2次世界大戦でイタリアが敗北すると、フィウメの帰属問題は再び俎上に載せられた。戦後の講和によって都市とその周辺はユーゴスラヴィアに編入され、多くのイタリア系住民が本土へと移住した。その後、都市名はクロアチア語のリエカが公的名称となり、社会主義ユーゴスラヴィアの下で工業・港湾都市として再開発が進められた。冷戦終結とユーゴスラヴィア解体をへて現在はクロアチア領となり、EU加盟国クロアチアの重要な港湾であり続けている。このようにフィウメの歴史は、帝国支配から民族自決、そして戦後国際秩序とワシントン体制の行方に至るまで、20世紀ヨーロッパ国際政治の変動を映し出す鏡といえる。

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