パレスチナ解放機構(PLO)|発足からオスロ合意まで

パレスチナ解放機構(PLO)

パレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization,PLO)は、イスラエルによって奪われたアラブ人の土地を奪い返そうと作られた。イスラエルによる占領下にあるパレスチナを解放し、パレスチナ人の民族自決権を実現することを目的としている。1988年に国連からも承認を受け、国際的な認知を得た。長年にわたり議長を務めたヤーセル・アラファトの指導の下、PLOは武装闘争から外交交渉へと路線を転換し、中東和平プロセスにおいて重要な役割を果たしてきた。

パレスチナ解放機構(PLO)は、(Palestine Liberation Organization,PLO)イスラエルによって奪われたアラブ人の土地を奪い返そうと作られた組織である。パレスチナ人を唯一正統に代表する組織であり、1964年に設立された。アラブ諸国が作った穏健派として組織された。

パレスチナ解放運動

パレスチナ解放運動とは、1958年、ヤセル・アラファトによってファタハ(パレスチナ解放運動)が設立された。過激派で武力によるパレスチナ解放を目指す運動である。1969年2月、パレスチナ解放運動はアラファトが議長になったが、穏健的であった。パレスチナ解放をアラブの大義として掲げつつも、具体的な活動はほとんど行わなかった。

穏健派から過激派へ

1967年の第三次中東戦争後、アラブ諸国は大きな損失を負うことになる。PLOの無力さがあらわになり、議長のアフマド・シュケイリが辞任した。ファタハを中心とする武装グループによって再編成され、1969年にヤーセル・アラファトが議長に就任したことで、当初は穏健的であったPLOは戦闘的な組織に方向転換することになる。パレスチナ解放機構(PLO)は、大きな連合体で、内部にさまざまな考え方を持った派が所属するという組織であったが、各派が様々なゲリラ戦を展開するに至る。

武装闘争

1960年代後半から1970年代初頭にかけて、PLOは主に武装闘争を通じてイスラエルに対する抵抗活動を展開した。1970年のヨルダン内戦(ブラック・セプテンバー)では、PLOはヨルダンからレバノンに拠点を移し、1972年のミュンヘン・オリンピック事件や1973年の日航機ハイジャック事件など、過激な行動で国際的に注目を集めた。しかし、これらの行動はアラブ諸国や国際社会からの非難を浴びることも多かった。

国際連合

1974年、モロッコのラバトで開催されたアラブ首脳会議において、PLOはパレスチナ人の唯一の正統な代表と認められた。同年、国連総会でもオブザーバー資格を獲得し、ヤーセル・アラファト議長が国連総会で演説を行った。これにより、PLOは国際的な認知を受け、パレスチナ問題の解決に向けた重要なプレーヤーとしての地位を確立した。

レバノン内戦とその後の動向

1982年、イスラエルはレバノンに侵攻し、PLOはベイルートからチュニスに本部を移さざるを得なかった。この後、PLOは武装闘争から外交活動への転換を進め、1988年にはパレスチナの独立を宣言し、イスラエルとの共存を模索するようになった。この宣言により、PLOは国際社会からの支持を得て、パレスチナ国家の建設に向けた動きを本格化させた。

湾岸戦争

1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻したことにアメリカが反発、湾岸戦争が起こる。窮地に立たされた、イラクのフセイン大統領は、イラク軍撤退の条件として、「イスラエル軍のパレスチナ占領地からの撤退」を掲げ、クウェート侵攻にイスラエルとパレスチナを巻き込もうとした。

イラク・フセイン支持

パレスチナ解放機構は直ちにイラクのフセイン大統領の方針を支持した。ところが、PLOへの最大の資金援助国はクウェートで怒ったクウェート亡命政権は、資金援助を打ち切った。イラクの脅威にさらされていたサウジアラビアも援助を停止、アラブ諸国からの批判が集中し、パレスチナ解放機構は、深刻な資金難に陥った。

オスロ合意

湾岸戦争時のイラク・フセイン支持でアラブ諸国の信用を無くし、援助も絶たれたパレスチナ解放機構(PLO)は、和平を模索するようになる。1993年、アメリカやノルウェーの仲介もあり、オスロ合意を結んだ。PLOはイスラエルとの間でオスロ合意に調印し、相互承認とパレスチナ暫定自治政府の設立に合意した。これにより、PLOは武装闘争路線を放棄し、和平交渉を通じてパレスチナ問題の解決を目指すようになった。

ノーベル平和賞

1993年、オスロ合意の功績を認められ、ヤーセル・アラファト議長は、イスラエルのイツハク・ラビン首相とともにノーベル平和賞を受賞した。

議長選挙

イスラエル軍が撤退した後、1996年1月、パレスチナ住民による選挙が行われ、国会に当たるパレスチナ立法評議会の議員選挙と、パレスチナ統治機構議長(大統領)の選挙が行われ、アラファト議長が選ばれた。パレスチナ解放運動(PLO)の軍事組織は、パレスチナ自治区の警察官として機能した。

アラファトの死とアッバースの指導

2004年、ヤーセル・アラファト議長が死去し、穏健派のマフムード・アッバースが後任に就任した。アッバース議長の下、PLOは引き続きイスラエルとの和平交渉を推進し、中東和平プロセスの進展を図った。しかし、ハマースなどのイスラム主義組織との対立や、和平プロセスの停滞により、PLOの影響力は徐々に低下していった。

現在のPLOの役割

現在、PLOは依然としてパレスチナ人の正統な代表機関としての地位を維持しているが、その影響力は限定的である。パレスチナ暫定自治政府(PNA)が設立されたことにより、PLOの機能は一部がPNAに移管されている。また、ハマースとの対立や内部分裂により、PLOの統一性は揺らいでいる。しかし、PLOは引き続き国際社会におけるパレスチナ問題の代表機関として、和平プロセスの推進とパレスチナ人の権利擁護に努めている。

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