ハンムラビ法典|目には目を歯に歯を,世界史

ハンムラビ法典

ハンムラビ法典は、古代バビロン第一王朝の王ハンムラビが制定した体系的な法典である。時代は紀元前18世紀頃、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方を広く支配する中で、社会全体の秩序と安定を目指して編纂された。シュメール法を継承し、集大成した成文法である。全282条からなる。刑法・商法・民法など多くの内容を含み、刑法では同害復讐法と身分による刑罰差を特徴としている。神の権威に基づく正当性を強調しながら人々の生活に直接かかわり、中央集権体制を強固にするうえで重要な役割を果たした。後世の法にに大きな影響を与え、『旧約聖書』にも「目には目を」の規定がある。1901~02年にペルシアの古都スサで、石碑に楔形文字で刻まれた原文が発見された。

ハンムラビ法典の概要

ハンムラビ法典は、前18世紀頃、バビロン第1王朝第6代の王ハンムラビによって設定された。これまであったシュメール法を元にハンムラビ法典を制定した。多くの都市の広場に条文を刻んだ石柱が建てられ、メソポタミア世界に共通の秩序を確立した。ハンムラビ法典はその目的を、「全土に正義をいきわたらせるため、悪事を撲滅するため、強者が弱者をしいたげないため」と述べている。

制定の背景

シュメール都市国家やアッカド帝国の伝統を継承して成長したバビロン第一王朝では、人口増加と多様な民族の融合が進んでいた。これに伴い、農業や商業が活性化する一方で、財産争い・借金問題・人身売買などの社会的混乱も深刻化した。そこでハンムラビ王は政治力と宗教的威信を結集し、強力な律法を作り上げる必要に迫られたのである。ハンムラビ法典により各都市を統制し、神殿経済との連携を通じて安定した支配を実現しようとした背景がうかがえる。

ハンムラビ法典

ハンムラビ法典

ハンムラビ法典の発見

1901年にフランスの探検隊がペルシアの古都スサで、高さ2.25メートルの黒い玄武岩の円柱に楔型文字で刻まれた、前文と2822条の条文からなるハンムラビ法典を発掘した。前文は、神々の代表エンリルがバビロンの守護神マルドゥクを全メソポタミアの王とし、その忠実な召し使いであるハンムラビをして、正義をかかげさせたとしている。

内容の特徴

刑事罰や民事規定を中心に、ハンムラビ法典は社会の諸側面を網羅している。原則として「目には目を、歯には歯を」という等価報復の概念が強調されるが、、貴族・平民・奴隷など身分や立場によって賠償額や罰則が異なる点が特徴である。自由人・従属民・奴隷といった階層区分があり、また契約破棄や不正取引に対する処罰などの商業関連規定も充実していた。公共事業や農地灌漑に関する責任追及も明記されており、国家主導の管理体制がどれほど厳格であったかを示している。

ハンムラビ法典 序文

敬虔なる君主で、神を畏れる朕ハンムラビをして国の中に正義を輝かせるために、悪者と奸者とを殲滅させるために、シャマシュ神のように黒い頭どもに向かって立ち昇り国土を照らすために、アヌ神とエンリル神とは朕の名をこう呼び給うた。これは人びとの幸せを満たすためである。

ハンムラビ法典 本文

(第196条)もし人がアウィルムの子の目を潰したときは彼の目を潰す。
(第197条)もし人の骨を折ったときは彼の骨を折る。
(第198条)もしムシュケヌムの目を潰したりあるいはムシュケヌムの骨を折ったりしたときは銀1マヌを支払う。
(第199条)もし人の奴隷の目を潰したりあるいは人の奴隷の骨を折ったりしたときはその価の半額を支払う。

神意と王権の結びつき

ハンムラビ法典は王が神から授かった正義を代行する立場にあるという考え方を基盤にしている。石碑の上部には太陽神シャマシュから王が法を授かる場面が描かれ、王権の神聖性と法の正統性が図像によって表現された。これにより、法典違反は単なる社会秩序の乱れだけでなく、神の意思に反する行為としても重く処罰されたのである。こうした宗教的背景のもと、王は強大な政治力を得ると同時に社会的責任の履行を厳しく要求された。

裁判制度の実際

裁判においては証人や証拠の提出が重要視され、偽証に対する罰則も厳格に規定されていた。ハンムラビ法典は個別のケースを具体的に列挙し、それぞれに適切な刑罰や賠償を与えることで、紛争を迅速に解決しようとしたのである。土地や農業に関するトラブル、商業上の契約不履行、家族や相続問題など、多岐にわたる事例が詳細に扱われていた点は、当時の社会が抱える課題を如実に反映している。

社会秩序への影響

ハンムラビ法典が機能することで、農業生産や商取引の安全性が高まり、人々は一定のルールに基づいて経済活動を営むことができた。裁判例が記録されることで、同様のトラブルが起きても法典に照らして判断が下されるなど、紛争解決のプロセスが標準化されたのである。このように「法による支配」を実現したことが、後世の古代律法に大きな影響を与え、他の地域や時代にも法典編纂の伝統を広める契機となった。

商法

ハンムラビの時代には安定した政治から商業が発達し、都市の大商人から元手を借りて広域で商業を行なう「代理人」も出現した。ハンムラビ法典は、「代理人が利益を上げなかった時には大商人に借りた銀の2倍を返す、盗賊に商品を奪われた時には責任を負わなくてよい。代理人が商人に元手を借りているのをごまかした時には、元手の3倍を支払い、大商人が代理人から利益の分配を受けているのにごまかそうとした時には受け取り分の6倍を罰金として支払う」などの規定をもうけている。

貸し付け

貧民は神殿に行って食料や種などを借りることが出来たが、当時の貸し付け利子は大麦は33%、銀は20%という高利だった。

バビロン王国全体との関係

ハンムラビ法典は単なる法の集合ではなく、バビロン第一王朝の政治体制や宗教観を包括的に示すものでもあった。王は祭祀や神殿管理を通じて国家宗教を統制し、広範な領土に暮らす多民族をまとめる手段として法典を活用したのである。都市国家同士の結びつきが強化され、王朝の統合力は格段に高まったが、外敵の侵略や内部抗争が続く中で、法典そのものが常に改訂・修正される可能性も残されていた。

古バビロニア王国

古バビロニア王国は、シュメール人を淘汰し、セム系遊牧民のアムル人によって作られた。前18世紀、第6代王ハンムラビ王の時にメソポタミア全土の統一を果たし、道路・運河を整えて中央集権体制を確立、警察制度や郵便制度、バビロニア語を共通語とした。

後世への継承

  • 新バビロニアやアッシリアなど、後の王朝でも法による支配の概念が定着した。
  • ヘレニズム世界へとつながる文化圏の中で、律法と神意を結びつける伝統は多くの文明に影響を及ぼした。
  • 粘土板や石碑に刻まれた法典が発見されることで、古代社会の具体的な実態をうかがい知る手がかりとなった。

古代律法としての意義

現代から見ると、人身売買や身分制度など差別的な要素も多分に含まれるが、それでもハンムラビ法典は古代社会において画期的な秩序形成の試みであった。国家と宗教とが一体化し、人々を法の名のもとに支配するというモデルが確立されたことは、メソポタミアを中心としたオリエント世界にとって大きな転換点となった。裁判手続きの標準化や契約法の明文化は、後の法体系にも影響を及ぼし、歴史上に残る古代法典として高い評価を受けている。

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