トルキスタン|シルクロードの拠点,トルコの地域

トルキスタン

トルキスタンは、イラン語で、トルコ人の地域を意味する。シルクロードの中間、中国とインドに接し、中央アジアのパミール高原と広大な砂漠が広がっている。この地を支配していた民族としてはアーリヤ系民族、6世紀には突厥、8世紀には、イスラム勢力、9世紀には、ウイグル人が入ってきた。サーマーン朝というイスラム系の王朝ができた。

突厥の台頭

オアシス都市を結ぶ東西交易路(シルクロード)に沿う地域は、古くからアーリヤ系民族が土着していて、その地域の住民は多くイラン系であった。しかし、6世紀半ば、アルタイ山脈の南麓からトルコ系の突厥が勃興し、大帝国を建設した。突厥は、東西交易の権益を押さえるようになると、にも大きな勢力をふるうようになると、この地域はしだいにトルコ化された。

タラス河畔の戦い

タラス河畔の戦いとは、751年、中央アジア北部のタラス川で、西域に進出してきたアッバース朝軍と迎えうつ唐軍との戦い。結果、唐軍が大敗した。この戦争をきっかけに製紙法が西アジアに伝わったという。

イスラム勢力の進出

8世紀以後、イスラム教の勢力がトルキスタンに進出してくる。アラブのイスラム軍がソグディアナ地方に入り、751年タラス河畔の戦いで唐の軍隊を破り、本格化した。

ウイグル支配

9世紀中、トルコ系のウイグルが内乱とキルギスの攻撃によって滅亡すると、モンゴル高原に住んでいたウイグル人がトゥルファン・タリム盆地に移住し、多くのオアシスを支配下においた。この結果、中央アジアのトルコ化は急速に進み、ペルシア語でトルコ人の地を意味するトルキスタンとよばれるようになる。

西トルキスタン

パミール高原を境にした西側の西トルキスタンでは、イラン系のソグド人を中心に、ゾロアスター教が信仰されていた。

東トルキスタン

東トルキスタンは、パミール高原を境にした東側の東トルキスタンでは、トルコ系のウイグル人を中心にマニ教や仏教が信仰されていた。

サーマーン朝

9世紀後半、西トルキスタンを支配したのは、イラン系イスラム政権であるサーマーン朝(875~999)であった。サーマーン王朝は、当初はアッバース朝に忠誠を誓い、サマルカンド、フェルガナ、タシュケント、ヘラートの支配権を与えられ、その後、勢力を蓄えて独立国家を形成するようになる。サーマーン朝は遊牧トルコの侵入を阻止し、遊牧地帯に聖戦(ジハード)をおこなうが、国境地帯に奴隷市場を設けて多くのトルコ人奴隷を獲得し、それらを西アジアに供給した。首都ブハラはイラン=イスラム文化の中心になったが、このサーマーン朝に仕えていたトルコ人総督は、アフガニスタンに独立してガズナ朝をたてた。このような経過をへて、トルコ系住民のイスラム教への改宗が進み、こうした趨勢は、10世紀にトルコ系のイスラム王朝のカラ=ハン朝(10世紀ー12世紀)が東・西トルキスタンを合わせることで決定的となった。