ソ連解体
1991年8月、保守派によるクーデターの失敗(8月政変)を契機に、ソビエト連邦(ソ連)は急速に解体に進む。ソ連共産党の解散、バルト三国の独立を経て、12月には独立国家共同体が創設、ゴルバチョフがソ連大統領を辞任すると、ソ連は消滅した。この過程でソ連共産党の権威が失墜し、冷戦の終焉が訪れた。ソ連の崩壊は、内部の民族分離主義や経済危機、政治的対立が複雑に絡み合った結果であり、その影響は現在の国際関係にも色濃く残っている。
概要
ソビエト連邦(ソ連)は、1988年から1991年にかけて内部の分裂と民族主義の台頭により、単一の主権国家としての存続を終えた。1980年代後半、ソ連は内部的な停滞と民族分離主義の増加に直面していた。1991年末、複数の共和国が脱退し、中央集権体制が崩壊。ゴルバチョフ大統領の政治・経済改革は頓挫し、ソ連の終焉を迎えた。
経済危機
ソ連は深刻な経済危機を抱えていた。1991年上半期のソ連経済は前年同期と比べて大幅に悪化し、GNPは10パーセント、工業生産は6パーセント、農業生産は11パーセントも落ち込んだ。物価上昇率は平均58パーセントに達し、実際にはそれ以上であった。国民は貧窮し、生活の維持ができない状況であった。こうした中でソ連の解体、資本主義と民主化の機運が生まれる。
8月政変
1991年8月、ソ連共産党内の保守派と軍部のエリートがゴルバチョフを打倒しようとクーデターを試みた。しかし、ロシア共和国のエリツィン大統領が民衆と共に抵抗し、クーデターは失敗に終わった。8月改変をきっかけとして、ゴルバチョフ政権の影響力は失われ、多くの共和国が独立を宣言した。
バルト三国の独立
1991年9月、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)が独立を果たす。この出来事はソ連解体の象徴的な出来事として、ソ連の崩壊を一層加速させた。
独立国家共同体(CIS)の創設
1991年12月8日、ロシアのエリツィン大統領、ウクライナのクラフチュク大統領、ベラルーシのシュシケビッチ議長が「ベロヴェーシ合意」を調印し、ソ連に代わる独立国家共同体(CIS)が創設された。12月21日にはグルジアとバルト三国を除く旧ソ連邦諸国がCISに加盟し、アルマアタ議定書に調印した。
ゴルバチョフの辞任とソ連の終焉
1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、核兵器の発射コードをエリツィンに譲った。その夜、クレムリンからソ連国旗が降ろされ、ロシアの三色旗に切り替わった。翌日、最高会議上層部の共和国会議が連邦の解散を正式に決議し、ソ連は消滅した。
ソ連崩壊後の影響
冷戦後、旧ソ連共和国の一部はロシアと緊密な関係を保ち、集団安全保障条約(CSTO)やユーラシア経済連合などの多国間組織を結成した。一方、バルト三国や旧ワルシャワ条約機構の国々は欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、ウクライナやジョージア(旧グルジア)なども西側諸国との関係を深めた。