セーヴル条約
セーヴル条約は、第一次世界大戦に敗北したオスマン帝国と連合国側とのあいだで1920年8月10日に締結された講和条約である。条約はオスマン帝国領の大幅な分割と軍事的・政治的制約を定め、帝国を事実上の保護国的地位におとしめたため、「オスマン帝国解体の条約」ともよばれる。しかし、その苛酷さゆえにトルコ民族運動の激しい反発を招き、最終的には実施されないままローザンヌ条約によって置き換えられることになった。
締結の背景
第一次世界大戦中、オスマン帝国は同盟国側として参戦したが、戦局の悪化により1918年に降伏し、ムドロス休戦協定を結んだ。連合国、とくにイギリス・フランス・イタリアなどは、戦前からのサイクス・ピコ協定などで中東分割の構想を進めており、戦後処理の場であるパリ講和会議やロンドン会議などを通じて、オスマン領の再編を協議した。その最終的な成果のひとつとして、オスマン政府に押しつけられたのがセーヴル条約であった。
条約の主な内容
セーヴル条約は、オスマン帝国の主権と領土を大きく制限する多くの条項から成り立っていた。とくに重要なのは、領土分割、軍備制限、海峡管理、中東地域の委任統治化などである。
- アナトリア西部のイズミル周辺をギリシアの行政管理下に置き、将来の住民投票で帰属を決定すること
- シリア・レバノンをフランス、イラク・パレスチナをイギリスの委任統治とするなど、中東の広大な地域を連合国の管理下に移すこと
- ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を国際管理とし、オスマンの主権を大幅に制限すること
- アルメニアの独立承認や、クルド人地域に自治ないし将来の独立の可能性を示唆する規定を設けたこと
- オスマン軍をごく小規模な防衛力にまで縮小し、兵器の保有と生産を厳しく制限すること
オスマン帝国への影響とトルコ民族運動
セーヴル条約の内容は、イスタンブルのスルタン政府にとっても耐えがたいものであり、国内世論も激しい屈辱感に包まれた。なかでもアナトリア本土の分割や軍備解体は、帝国の存立を根本から脅かすものであった。このため、ムスタファ=ケマルを指導者とするトルコ民族運動が台頭し、アンカラに独自の国民議会を樹立して条約受け入れに反対した。こうしてトルコ独立戦争が展開され、ギリシア軍や連合国軍との武力衝突を通じて、条約の実施を事実上不可能にしていった。
ローザンヌ条約への転換
トルコ民族運動の勝利により、スルタン制は廃止され、アンカラ政府が国際的な交渉主体として浮上した。1923年、スイスのローザンヌで新たな講和条約が結ばれ、ローザンヌ条約が締結されるとセーヴル条約は正式に無効化された。ローザンヌ条約は、アナトリアと東トラキアを中心とする現在のトルコ共和国の国境を承認し、オスマン帝国解体後のトルコ国家の枠組みを確定させるものとなった。
中東国際秩序への影響
セーヴル条約は完全には実施されなかったものの、その構想の多くは、委任統治制度や国境線の形で中東の国際秩序に影響を与えた。イギリスやフランスによる委任統治は、後のシリア、イラク、レバノン、パレスチナなどの国家形成に直接結びつき、現代の中東問題の歴史的背景ともなった。また、クルド人やアルメニア人をめぐる規定は、民族自決の理念と列強の利害が交錯する象徴的な事例であり、第一次世界大戦後の国際秩序再編における限界を示している。ヴェルサイユ条約とともに、セーヴル条約は大戦後の講和体制の一環として位置づけられ、その不安定さが後の紛争の温床となったのである。
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