ニコラウス・コペルニクス NicolausCopernicus 1473-1543
コペルニクスは、ボーランドの天文学者、カトリックの司祭、医者であり地動説を唱えた。主著『天体の回転について』。銅の売買を中心とする富裕商人の子に生まれ、クラクフの大学で学んだあと、神学・天文学・医学を学びながらイタリアを遊学した。キリスト教を進行しながらも、ローマ教会に認められていた地動説に疑問をもつようになる。そして天体の運動を数学的に説明するために、太陽を中心にして地球を含む惑星が回転する地動説をとなえたが、ローマ教会からの異端とされることを恐れ、死の直前まで公表を避けた。それは、二千年にわたるアリストテレスの地動説を真っ向から否定し、その上に立脚したキリスト教的世界観をすら揺るがした。なお、コペルニクスの地動説を支持したブルーノは火刑にかけられている。コペルニクスの地動説は、ガリレオ・ガリレイやケプラーの支持を受け、近代自然科学の端緒を開いたとして高く評価されている。
コペルニクスの略年
1510年 『コメンタリオルス』を出版
1528年 『貨幣鋳造の方法』を出版
1539年 弟子のゲオルク・レティクスが地動説の出版を促す
1543年 『天球の回転について』を出版
コペルニクスの地動説
地動説はアリストテレスの目的論的自然観をもとに2世紀ごろプトレマイオスによって確立した地球を宇宙の中心不動とする宇宙観で世界を神の創造とするキリスト教の世界観の基盤ともなった。コペルニクスは、古代ギリシアで天体の観察から地球が動いているという説に注目し、地球は太陽のまわりを自転しながら動いているという地動説を提唱した。これはキリスト教の世界観と真っ向から異なり、敬虔なカトリックであるコペルニクスの悩みとなった。
地動説に至った経緯
プトレマイオス以来、1000年間もの間、欧州では天文学に大きな進歩はなかった。天文学は大きく下火になったが、15-16世紀の大航海時代に突入すると事情が一転する。遠洋航海を行うため、船の位置を知る必要性が高まり、天文学や航海道具が大きく飛躍する。このような時代を背景にコペルニクスは1497年にドメニコ・マリア・デ・ノヴァラの助手として天体観測を行うが、続けているうちに下記の理由から地動説を疑いはじめた。
- 恒星アルデバランが月に隠れる掩蔽現象(えんぺい)がプトレマイオス宇宙論と合わない。
- 天動説では周回円の数が多くなりすぎる。
- エカント(クラウディオス・プトレマイオスの数学的概念)に問題がある。
- 小さな地球が大きな太陽のまわりを回るのは考えにくい。
- 惑星は太陽光を反射して輝く。
- 内惑星(水星、金星)と外惑星(火星、木星、土星)の運動の違いを明確に説明できる。
- 惑星の逆行現象が説明できる。
死ぬ間際に神学者アンドレアス・アンダーの協力のもと『天球の回転について』を出版するが、このタイトルはコペルニクスには許可を得ず、さらに序文に「これはこういう見方もあり得るというひとつの学説であり、宇宙の真理を記したものではない。」という一文を追加した。