チェ・ゲバラ
チェ・ゲバラ(本名:ルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)はアルゼンチン出身の革命家である。裕福な家庭で医学部に進み、医者になる立場であったが、中南米を旅して貧困問題に直面し、革命を志すようになる。フィデル・カストロと出会う。59年のキューバ革命で中心的役割を担った。キューバ革命後は、キューバ国籍を与えられ、新政権では国立銀行総裁をつとめたが、1965年にキューバを離れ、南米でのゲリラ活動に身を投じる。1967年10月、中米ボリビアの山中でゲリラ活動中に政府軍につかまり、処刑された。革命家の最後、銃を構える若い兵士にと叫んだ。
チェ
チェ・ゲバラのチェとはスペイン語の方言で使われる挨拶で、「やぁ!」「キミ」を意味する。ゲバラはよく「チェ」といっていたことからこの愛称が使われるようになった。
生誕から大学まで
1928年6月14日にチェ・ゲバラ(エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)は、アルゼンチンの北部の町ロザリオで生まれる。実業家の父や政治家の娘の下、裕福な家庭で幼少期のゲバラは活発であったが、2歳の頃、喘息性気管支炎にかかり、学校教育も満足にうけることはできなかった。体調が悪く家も頻繁にかえた。学識高い母親からの教育をうけ、家に貯蔵された3000書の蔵書を読んだと言われる。19歳でアルゼンチンの国立ブエノスアイレス大学医学部に進み、医師を目指した。このころから体調もよくなり、学問だけでなくスポーツも親しんだ。
1回目ラテンアメリカへの旅
ゲバラが23歳になる頃には、医学への熱意がなくなり、精神状態は怠惰なものとなった。それと同時に友人とラテンアメリカに旅行に向かう。わずかな所持金とぼろいバイクだった。2ヶ月後、チリの貧しい村で喘息患者の老人の診察を行った。貧困ゆえの劣悪な環境で薬を買うお金もなくただ死を待つだけであった。そのほか、ハンセン病や鉱山労働者などの看病もおこなった。ラテンアメリカの貧富の差に出会うことで、自らの順風満帆な、医者としての人生に疑問を覚え、一方で、不平等で貧困に苦しむ人々に身を寄せていく。
2回目のラテンアメリカの旅
1953年7月、ゲバラが25歳のとき、大学を卒業すると、2回目の旅を行った。ペルー、エクアドル、メキシコに向かう旅路であった。1回目は目的はなかったが、今回の世の中の貧困の解決を模索する旅であり、結果、アメリカの資本主義の陰で貧困に苦しむ市民を見ることになる。ゲバラが訪れたボリビアは特に貧困が深刻化しており、平等な社会を作るためにクーデター活動が行われていた。1993年12月には、さらに革命が本格化していたグアテマラに入る。グアテマラは、アルベンス政権下で農地革命が進んでおり、大地主を解体し、農民に公平に分配、多くの利益が得られるようにした。ゲバラは、グアテマラに強い関心を抱き、半年近く滞在を予定したが、改革を進めるアルベンス政権は、隣国ホンジュラスやエルサルバドルからの軍事侵攻にあう。その軍事侵攻の背景にはアメリカが暗躍し、ゲバラはアメリカに強い嫌悪を抱くようになる。これをきっかけに生涯、ゲバラは武器をもって革命戦を戦い抜くようになる。
メキシコ
グアテマラで革命政権が倒されると、ゲバラは革命者や亡命者の拠点となっていたメキシコにはいったが、キューバから亡命者たちと日銭を稼ぎながら生活を行う。なお、このとき、フィデル・カストロと交友をもつ。カストロは自身の武装蜂起による革命論をゲバラに説き、ゲバラの人生を動かすほどの大きな影響を与えた。
キューバとカストロ
当時、キューバでは、サトウキビが輸出産業であったが、利益のほとんどを地主とアメリカ企業が独占していた。彼らの搾取が貧困をうみ、国民は披露していた。カストロは武器をもって武装蜂起を行い、クーデターを展開していた。その後、チェゲバラを軍医として再度キューバに入るようになる。
キューバ入り
1956年11月25日、カストロはグランマ号と呼ばれる船にのり、82人の兵士とキューバを目指した。ゲバラは軍医としてこれに同船した。仲介支点としてシエラマエストで現地の兵士と落ち合う計画であったが、キューバ軍と交戦状態に入る。カストロ、ゲバラを含め、わずか12人の兵士だけが生き残った。
軍医
2万を超える政府軍に対してわずか12人でゲリラ戦を展開した。ゲバラはカストロの指示に従い、負傷した敵兵士を手当してまわった。また貧しい町の診療所を訪ね、病人の手当を行い、学校を訪れては教育を与えるようになる。次第に住民らの革命軍への理解が高まり、その兵として加わる者や支援する者が増えた。当初はわずか12人の革命軍であったが、400人までその数を増やした。
ゲリラ戦士は道徳的規範でなくてはならない。
サンタクララ
1958年、12月29日、サンタクララで政府軍6000人とカストロ率いる革命軍400人と衝突するが、革命軍が装甲列車を転覆させたのをきっかけにサンタクララを掌握する。
キューバ革命
1959年1月1日、革命軍の勢いに追い詰められたキューバ大統領バティスタが国外へ逃亡、革命軍は民衆の大きな支持を背景に、1959年1月3日に首都ハバナに到達した。1959年2月、カストロは首相に就任した。
キューバ国立銀行総裁
キューバ革命を終えた後、ゲバラはキューバの市民権を得、カストロを補佐する役割を担う。キューバ国立銀行の総裁や工業大臣に就任した。また、農地改革をすすめ、土地を国有化し、農民に分配した。アメリカに依存しない経済圏の確立を目指した。休日にはボランティア活動として農地や建設現場で働き、国民の支持を集めた。
アレイダ・ゲバラ
アレイダ・ゲバラと結婚し、4人の父親となる。
キューバ危機
1962年10月、キューバ危機が起こる。アメリカとソ連による冷戦のなか、カストロはソ連に接近し、核ミサイルを配備する。アメリカはキューバおきに軍艦を配備し、核戦争の危機的状況が起こる。ゲバラは国際会議にてロビー活動を行い、アメリカを厳しく批判した。
合衆国はキューバの査察を国連に要請した。我々はこれを断固拒否する。国連事務総長が理解を示したにもかかわらず、なぜ我が国の上空を偵察機が飛び回っているのだ。・・・その叫びとはこうだ。祖国か死か!(1964年12月国連総会)
欧米列強諸国の高い生活水準は我々途上国の貧困の上で成り立っているのだ。もし途上国が惨めになることによって社会主義国家が高い生活水準を保っているとすれば、それは帝国主義的搾取の共犯者と見られても仕方ない。(1965年2月 アジアアフリカ会議)
キューバへの帰国
1965年3月14日、ゲバラはキューバへ帰国した。ソ連を途上国を搾取する社会主義国として批判し、ソ連に近づくカストロと意見を異にする。1965年3月21日、キューバを離れ、コンゴでの革命に入る。
今世界の他の国が僕のささやかな努力を求めている。君はキューバの責任者だからできないが、僕にはそれができる。別れの時がきた。永遠の勝利の日まで勝利か死か。ありったけの革命への情熱を込めて君を抱きしめる。
コンゴ
ゲバラは、コンゴ革命軍に参加したが、コンゴ革命軍は働かず訓練もせずまともに戦うことすらせず、一方で、住民に対し食料提供や労役を強制した。そこではゲバラの理想からは大きく外れ、半年でコンゴを去った。
ボリビア
1966年11月ボリビアへ入国し、革命運動を展開する。民衆を抑圧する軍事独裁体制の撲滅をめざした。1967年10月8日、ゲバラは、政府軍に捕らえられ銃殺された。
撃て!恐れるな!俺はただ男にすぎない
死後
1997年、ゲバラの遺骨はボリビアの埋葬場所から掘り出され、キューバに運ばれ、国葬が行われた。終生、革命の理想の中に生きたゲバラは、キューバで憧れの対象として親しまれている。
20世紀でもっとも完璧な人間だった(サルトル)