カンボジア内戦

カンボジア内戦

カンボジア内戦とは、1970年、シアヌーク国王に対するロン=ノル将軍のクーデタから内戦開始が始まった。1976年、親中国のポル=ポト派が政権を樹立する。1978年ベトナム軍が侵攻をきっかけに、1979年、親ベトナムのヘン=サムリン政権が成立した。国連の調停もあって91年に内戦は一応終結し、連合政府ができる。1993年には新憲法が制定されてカンボジア王国となるが、97年には政変が起こる。1998年にはポル=ポトが死去するなど情勢は不安定である。

ロン・ノル将軍によるクーデター

1970年、ロン・ノル将軍によるクーデターからカンボジア内戦が始まる。クーデターにより、国家元首であったシアヌーク国王は権力を失い北京に亡命した。

ロン=ノル政権

ロン・ノル将軍は1970年3月、シアヌークの外遊中に無血クーデターを実行し、カンボジアの実権を握った。これにより、親米派のロン・ノル政権が誕生し、アメリカと緊密な関係を築き、アメリカの支援を受けつつ、南ベトナム軍と協力して北ベトナム軍および共産主義勢力との戦闘を展開した。

カンプチア民族統一戦線

シアヌークはクーデタ―をきっかけに北京に亡命し、反政府勢力を結集してカンプチア民族統一戦線を結成した。

三つ巴の内戦

1970年4月、アメリカはカンボジアに侵攻し、北ベトナムからの補給ルートを遮断する作戦を開始した。これにより、カンボジアは全面的な戦争に突入し、ロン・ノル政府軍、シアヌーク派、そしてポル・ポト率いる共産主義勢力の三つ巴の内戦が激化した。

ポル・ポト政権の台頭

1975年、ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペンを制圧し、ロン・ノル政権を崩壊させた。ポル・ポト政権は「民主カンプチア」を樹立し、文化大革命の影響を受けた極端な共産主義政策を実施した。この政策は農業主体の共同社会の建設を目指し、通貨を廃止するなどの急進的な改革を行ったが、多数の反対派が粛清され、約170万人が犠牲となった。

内政失敗

都市出身の知識人や反対派に対する弾圧が激しく、多数の犠牲者が出た。農業主体の共同体社会を目指したものの、農業政策は粗雑なものであったため、飢餓を生み出すことになる。通貨の廃止、家族の解体と隔離、こどもの兵士や医者など、特異なものだったため、人類史に衝撃を与えた。

外交政策

親中国政策を取るポル・ポト政権はベトナムとの対立を深め、1977年末には国境紛争が発生するようになった。

ベトナム軍の侵攻と親ベトナム政権の樹立

1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、1979年1月には首都プノンペンを占領した。これによりポル・ポト政権は崩壊し、親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立された。しかし、この政権は国際的に承認されず、シアヌーク支持派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合が対抗し、内戦が続いた。

ベトナム軍の侵攻と評価

ベトナム軍の侵攻は国際法違反のものだったため批判が集中した。激化するものと思われたが、カンボジア国内に反撃する勢力はほとんどおらず、貧窮した国民によって歓迎される側面もあるという皮肉なものとなった。

冷戦の終結と内戦の終焉

冷戦の終結とともにカンボジア内戦にも和平の機運が生まれた。1989年、ベトナム軍がカンボジアから撤退し、1991年にはパリ和平協定が締結された。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が介入し、1993年には総選挙が実施された。これにより、シアヌークが国王に復帰し、カンボジアは立憲君主制のカンボジア王国となった。

ポル・ポトの死と内戦の終結

1998年、ポル・ポトが死亡し、カンボジア内戦は事実上終結した。

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