カルデア王国
カルデア王国は、古代メソポタミア南部を拠点に発展した国家である。一般には新バビロニアとも呼ばれ、紀元前7世紀末から紀元前6世紀半ばにかけて、オリエント世界に大きな影響を及ぼした。もともとはアッシリア帝国の支配下にあった地域から台頭し、ナボポラッサルの反乱を契機に独立を果たす。続くネブカドネザル2世(ネブカドネザル二世)の統治期には、バビロン捕囚や巨大建築事業など、多彩な政治・宗教・建築面の遺産を残した。最終的にはペルシアのキュロス2世による征服で滅亡を迎えたが、その短い存続期間において、古代オリエント史上きわめて重要な位置を占める存在となった。
成立と背景
カルデア王国が成立した背景には、紀元前7世紀後半のアッシリア帝国衰退が大きく関係している。北メソポタミアを拠点としたアッシリアの支配力が弱まると、バビロニア南部のカルデア人勢力が自立の機会をうかがうようになった。ナボポラッサルはこの混乱を巧みに利用し、紀元前626年頃にバビロニアの支配権を掌握してカルデア王国を樹立したのである。彼はメディアとも同盟を組み、ニネヴェ陥落(紀元前612年)をはじめとする一連の遠征によって、旧アッシリア領の大部分を手中に収めることに成功した。
ネブカドネザル2世の治世
ナボポラッサルの跡を継いだネブカドネザル2世は、カルデア王国の最盛期を築いた人物として知られる。エルサレムを陥落させてユダヤ人をバビロンへ連行し、いわゆる「バビロン捕囚」が始まったのもこの時代である。一方でバビロンの大規模な再建事業にも力を注ぎ、イシュタル門やマルドゥク神殿といった華麗な建造物を整備した。伝承上「バビロンの空中庭園」を造ったのもネブカドネザル2世とされるが、その実在については研究者の間で意見が分かれている。
バビロンの繁栄
首都バビロンは、カルデア王国の経済・政治・宗教の中枢であった。ユーフラテス川の流水を利用した灌漑と運河網によって農業生産力が高まり、交易路の要衝としても機能した。大神マルドゥクを祭る祭礼行事には遠方からも人々が訪れ、バビロンは当時のオリエント世界で最も栄えた都市の一つとなった。また多彩な民族と文化を取り込み、独自の学問や芸術が発展する土壌を育んだ。
バビロン捕囚の影響
- ユダヤ人共同体の宗教観・世界観に大きな変化をもたらした
- ユダヤ教の信仰体系がさらに強化され、聖典の編纂が進んだ
- 周辺諸国に対するカルデア王国の軍事的・政治的威圧を誇示した
衰退と滅亡
ネブカドネザル2世の死後、王朝内の権力争いが激化し、ベルシャザルら後継者のもとでは政治基盤が弱体化した。そこに台頭したのがペルシアのキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシアである。紀元前539年にバビロンはペルシア軍によって陥落し、カルデア王国は終焉を迎えた。わずかな期間の独立ではあったが、オリエント地域を再編成し、壮大な都市文化を花開かせたという点で、歴史的評価は非常に高い。
歴史的意義
カルデア王国は、古代近東世界においてアッシリアに代わる覇権を確立し、バビロンの都市文化を極限まで洗練させた点が特徴的である。彼らの建立した宗教施設や行政制度は、その後のペルシアやヘレニズムの時代にも影響を与えた。また、バビロン捕囚などの歴史的事件は、世界宗教や民族意識の形成にも関わる重要な契機となった。こうした政治・文化両面の遺産が現代に至るまで多角的に研究されており、オリエント史の一部として欠かせない位置づけを占めている。