インドでの民族運動の展開|独立求めた闘争の軌跡

インドでの民族運動の展開

インドでの民族運動の展開は、19世紀後半のエリートによる穏健な自治要求から、ガンディーに代表される大衆的な非暴力運動、そして第二次世界大戦下の「退陣せよインド」運動とインド・パキスタン分離独立へと連続的に進んだ過程である。イギリスの植民地支配のもとで、インド国民会議の結成、サティヤーグラハ(真理把持)や不服従運動、ムスリム連盟の分離主義などが重なり合い、最終的に1947年の独立と分離を生み出した。

植民地支配と初期ナショナリズムの形成

18世紀以降、インドは東インド会社の支配を経てイギリス本国の直轄統治へと移行し、経済的収奪と行政的支配が強化された。こうしたなかで、西洋式教育を受けたインド人エリートは、議会主義や立憲主義の理念を学び、やがて自治と政治参加を要求するようになる。1885年にインド国民会議が設立され、当初は請願や陳情を通じて穏健な改革を求める段階にとどまっていたが、これが民族運動の組織的基盤となったのである。

第一次世界大戦とガンディーの登場

第一次世界大戦期、イギリスは戦争協力と引き換えに自治拡大をほのめかしたが、戦後も植民地支配の枠組みは維持された。戦後インドに戻ったモーハンダース・ガンディーは、南アフリカでの経験をもとにサティヤーグラハの思想を掲げ、農村や都市の貧困層を含む大衆を政治運動へと動員していく。1919年のロウラット法に対する抗議運動やアムリットサル虐殺事件は、イギリス支配への憤激を高め、従来の穏健な請願政治から、大衆的抵抗運動への転換点となった。

非協力運動とスワラージ要求

1920年代初頭、ガンディーは非協力運動を提唱し、官製学校のボイコット、官職辞任、イギリス製品不買、インド産手紡ぎ布カーディーの着用奨励などを通じて、自給自足的な経済と道徳的自治を追求した。この運動はヒンドゥー教徒とムスリムの協力を掲げつつ、スワラージ(自治)の獲得を目標としたが、一部の暴力事件を契機にガンディーは運動を中止し、非暴力の原則をあらためて強調した。にもかかわらず、非協力運動は農村や都市下層に民族運動を浸透させたという点で画期的であった。

塩の行進と市民的不服従運動

1930年代に入ると、ガンディーは塩税への抵抗を通じてイギリス支配の不当性を象徴的に示そうとした。1930年の塩の行進では、ガンディーが数百キロを徒歩で進み、海岸で塩を作る行為をもって政府法令に違反した。この象徴的行為は各地の大衆運動を刺激し、市民的不服従運動が全国的に展開した。インド国民会議指導部の逮捕と弾圧が繰り返される一方で、イギリス側は円卓会議やインド統治法1935年を通じて限定的な自治拡大を認め、州レベルでの選挙と自治政府の樹立を進めた。

第二次世界大戦と「退陣せよインド」運動

第二次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドの指導者に十分な相談もなく対独参戦を宣言したため、不満が高まった。戦時中に派遣されたクリップス使節団は、戦後の自治拡大を約束したものの、具体性に乏しく国民会議の要求を満たさなかった。1942年、国民会議は「退陣せよインド」決議を採択し、ガンディーはイギリスの即時退去を要求する大衆運動を呼びかけた。指導部は一斉に逮捕され、多くの地域で自発的な抵抗や破壊活動が起こったが、苛烈な弾圧により多くの死傷者を出した。この運動は、戦後にイギリスがインド支配を持続しえないという認識を植民地権力側にもたらした点で重要である。

ムスリム連盟と分離独立の構想

インド民族運動は一枚岩ではなく、宗教や地域による利害の相違を抱えていた。とくにムスリム連盟の指導者ジンナーは、多数派ヒンドゥー教徒が支配する統一インドではムスリムの権利が保障されないと主張し、「二民族論」に基づくムスリム国家パキスタンの創設を訴えた。1940年代には、ヒンドゥー・ムスリム間の暴動が頻発し、統一国家構想は次第に現実味を失っていく。最終的に、1947年にインドとパキスタンの分離独立が実現したが、その過程で大量の難民と宗教対立が生じ、多くの犠牲が出ることとなった。

アジアにおける民族運動との関連

インドの民族運動は、同時期のアジアに広がった反帝国主義運動の一環として理解することができる。中国では、国民党と共産党の対立のなかで毛沢東が指導する紅軍が農村からの革命を進め、江西省瑞金を中心とする中華ソヴィエト共和国が成立した。南京の国民政府は関税自主権の回復(中国)などを通じて形式的な主権回復を進める一方で、都市では買弁や浙江財閥が外国資本と結びついた資本家として成長した。また、長征の出発点となった井崗山や、革命根拠地のひとつである瑞金への移動は、インドの非暴力的大衆運動とは異なる武装闘争の側面を示している。さらに、南京国民政府による国民政府の中国統一の過程も、帝国主義に対する抵抗と国家統合の試みとして、インド民族運動と共通する課題を抱えていたのである。

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