鎬京
鎬京は西周の王都として機能した都市であり、現在の陝西省西安市周辺、灃水と渭水の合流域に位置したと伝えられる。周王朝は文王が「豐(豊京)」を営み、武王(あるいは成王期に周公)が鎬京を築いて二都体制(豐鎬)を整えたとされ、宗廟祭祀と政務を分担することで王権を安定させた。地理的には関中平原の要地にあり、富饒な渭水流域を背景に、諸侯の来朝・朝貢・軍事動員を円滑にする交通結節点として機能した。
地理と自然環境
鎬京は渭河盆地の西部に位置し、渭水とその支流である灃水の沖積地に立地した。肥沃な平野は農耕生産を支え、秦嶺山地を背にした地勢は外部勢力に対する防禦上の利点ともなった。水系は灌漑と輸送の双方を担い、王都の糧秣集積と青銅器生産に必要な物流を確保した。
成立と二都体制(豐鎬)
文王は「豐」を営んで商討伐の拠点とし、武王の伐紂によって王朝が樹立されると、政務中枢としての鎬京が整備されたと伝わる。豐は宗廟・祖先祭祀、鎬京は朝政・軍政の中心という機能分担が行われ、王権は礼制と軍政の二輪によって維持された。この二都体制は王権の神聖性(宗廟)と実効性(朝政)を空間的に可視化する政治的装置であった。
都市構造と礼制空間
鎬京は宮城・外郭・市などから成る複合都市で、王宮区には朝堂・寝殿・宗廟・社稷壇が配され、王権が礼制(周礼)に則って執行される舞台が整えられた。城郭は夯土の城壁と門・道路網によって秩序づけられ、儀礼動線と行政動線が分節されたと考えられる。市は王畿に集積する産品と青銅器・玉器などの工房を繋ぎ、徴発と分配の回路を形成した。
主要な構成要素
- 宮城:王宮・宗廟・社稷を内包する王権の中核区画
- 外郭:官庁・貴族邸宅・兵営・作坊(工房)・倉廩の集積
- 市と道路:渭水・灃水水運や陸路と接続する交易・補給の拠点
政治機能と諸侯統合
鎬京は分封体制の運用拠点であり、諸侯の冊命や朝覲、軍事的召集がここで行われた。王は宗廟祭祀と盟誓儀礼を通じて血縁・礼制に基づく秩序を再確認し、渭水流域の富と軍事動員力を背景に王畿の支配を固めた。青銅器銘文に見える賞賜・討伐・盟約の記録は、王都で形成・発信された政治秩序の痕跡を物語る。
交通・軍事・経済の要衝
関中は東西を結ぶ回廊であり、鎬京は渭水航行と陸上路網を束ねる中継点であった。王畿の穀倉地帯がもたらす余剰は、青銅器生産や軍備維持を支え、周辺の戎狄や強大な諸侯に対する抑止力となった。周王朝の軍事出動は王都を起点に組織化され、封内の統治と外征の双方が円滑に運用された。
東遷と鎬京の終焉
西周末、外敵の侵入と内紛が重なり、王都の防衛は破られた。とくに犬戎の侵攻で王が難に遭うと、王朝は東方の洛邑へ遷都し、ここに西周は終わりを告げた。鎬京は政治中枢としての機能を失い、以後は遺跡として古記録に名を留めるのみとなったが、その二都体制と礼制空間は後世の都城観に影響を残した。
考古学的知見(豐鎬遺跡)
現地調査では大規模な夯土基壇、柱穴群、祭祀坑、作坊跡などが確認され、青銅器・玉器・陶器が多数出土している。これらは王宮・宗廟・工房・倉廩などの機能分化を示唆し、鎬京の王都像を具体化する手掛かりとなる。灃水の東西両岸に広がる遺構群は「豐鎬遺跡」と総称され、二都体制が地形と水系に沿って構築されたことを裏づける。
出土と年代観のポイント
- 夯土建築:王宮・壇場・城壁など中核施設の存在を指示
- 青銅器銘文:冊命・戦役・賞賜記事から王権運用の実態を反映
- 遺跡の広がり:渭水・灃水沿いに連なる複合的都市圏の像
史料にみえる鎬京
古典史書には文王の豐営、武王・成王期の鎬京経営、宗廟・朝政の分担、そして東遷の経緯が記される。記述は編纂時代の観念や政治的意図を帯びるが、青銅器銘文や遺構との対照により、王都の機能・空間構成・儀礼実践が多面的に復元されつつある。
名称・語義と比定地
鎬京の「鎬」は地名としての固有性を持ち、灃水流域の地形・水系と結びついて認識された。比定地は西安市近郊に広がる遺跡群に求められ、王宮区・宗廟区・市・工房・倉廩・道路網などの配置が段階的に明らかにされてきた。これにより、二都体制を核とする西周王権の空間的基盤と、その歴史的ダイナミズムが具体像を伴って理解されるようになった。