進化論|ダーウィン,ウォーレス,スペンサー,自然選択,適者生存

進化論evolutional theory

進化論とは、多種の生物が共通の生物を基盤として長い年月をかけて分岐してきたと考える思想。18世紀にフランスの博物学者ビュフォンや自然誌学者ラマルク、19世紀にダーウィンやウォーレスらによって説かれた。とくにダーウィンの自然淘汰による生物進化論は有名である。進化論は、社会思想にも影響を与え、モーガンやタイラーは欧米の文明を人類文化の進化の頂点と見なし,地球上に残る未開の文化を人類の過去の文化の残存とみなす直線的な文化の進化主義を説いた。
しかし、文化の進化主義はその後の研究によって疑問視され、20世紀になると、未開の 文化に独自の価値を認めるレヴィ=ストロースらによって批判された。また、適者生存の進化論に対して、多数の生物が空間的・時問的に生活の場を分かちあいながら、共存するという「棲み分けの理論」を、日本の生態学者の今西錦司が説いている。

進化論

進化論

キリスト教からの進化論批判

進化論は、生き物は神によってはじめからいまある姿で創られたと教える聖書の見解と決定的に対立するものであったため、キリスト教からは批判された。そのため、当時、ダーウィンは動物と人間との連続性の議論を避けていた。
1996年、ローマ法王が進化論と公式な和解を宣言したものの、現在も多くのキリスト教徒は進化論に批判的である。
なお、キリスト教圏内ではない日本では19世紀当初からも比較的柔軟に受け入れられた。

ダーウィン

ダーウィン

ダーウィンとウォーレスの進化論

ダーウィンは、1831年から36年にかけて南米海域での測量調査を目的とした軍艦ビーグル号に乗船した経験をして、生物の種は固定的ではなく時間とともに変化していくという発想をもつ。その後、ダーウィンは、マルサスの『人口論』などにヒントを得て、進化を可能にするメカニズムとしての自然選択の原理いきつく。1858年にマレー群島へ行つたウォーレスからダーウィンと同じ自然選択説を主張する論文が送られてきた。ダーウィンはその論文をみるまで公表していなかったが、両者の論文は同じ表題で同年のリンネ学会で発表されることとなる。翌年、『種の起源』が発表された。

自然選択

自然は、その環境に望ましい個体を残し、劣った個体を省くように働く。たとえば、生物は実際に生存できるより多くの数の子を生むが、そのとき、個体同士の生存競争が生まれる。さらに同じ種の個体の中にも環境に適応したものと適応しないものにわかれる。こうした生存競争の中では有利な変異をおもった個体が生き残り、その特徴をおもった個体や品種が生き残って子孫を残すことで新しい種が産み出される土台作られる。

適者生存

自然界の生存競争でもっとも有利な変異をそなえた個体や種が生き残ることを適者生存という。個体レベルでの変異が繰りかえされると、個体の種のレベルでの変化まで生じる。環境により適応した変異をもつ個体が生き残り、子孫にその性質を伝えていくというプロセスを世代ごとに繰りかえすことで、生物の種が次第により適応したものに変化する。またこの変化は環境の変化に応じて行われ、より適応の方向に変化していく。

動物学者ヘッケル

動物学者ヘッケル(1834~1919)はドイツにおける進化論の普及に貢献した。ヘッケルは1863年にダーウィンの思想をドイツに紹介し、『自然創造史』を発表して、ダーウィニズムの普及に努めた。ヘッケルによればゲーテとラマルクを進化論の先駆的役割を果たしたとし、一方で、ダーウィンと異なる自然選択以外の進化要因も認めた。その特異な思想は晩年のニーチェの思想にも影響を与えることとなる。

メンデルの遺伝理論

進化論は、メンデル(1822~〜84)の遺伝理論と結びつき、そしてJ.ハックスリーらによって偶発的遺伝変異による自然選択理論を主軸とした総合理論の大枠が作られる。ここで一定の完成が成し得た。

ネオ・ダーウィニズム

ネオ・ダーウィニズムとは、自然選択からいかにして種の進化が生じるのかをいっそう厳密に考察するなかで生まれた。
ダーウイニズムの核をなす自然選択説にメンデル遺伝理論における突然変異説を融合させ、自然選択を遺伝子頻度の差といった観点で捉えなおすことによって導こうとする立場である。ダーウインが漠然と漸進的な変異という概念のままだった進化のプロセスが、遺伝子レベルにおける突然変異といった概念で置き換えられ、種内部での遺伝子頻度の変化の延長として種以上のレベルでの進化の発生を説明する試み行われるに至る。

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