西周|封建秩序と宗法礼楽の整備

西周

西周は、周人が華北の政権を統一し、前11世紀頃から前770年まで関中(現在の陝西省周辺)を中心に支配した王朝である。周武王の殷征伐と周公旦の体制整備により成立し、王権は天命思想と礼楽秩序を基礎に、諸侯を分封して多中心的な統治を行った。政治は宗法による血縁序列を軸とし、青銅器の鋳造や金文の刻辞に体制理念が表現された。後期には王権の伸張と停滞が交錯し、幽王期に戎狄の侵攻で鎬京を失い、東遷して東周が始まる。

成立と王権の正統

西周の正統性は、殷の無道を討って天命が周に革まったという「易姓革命」観に置かれる。武王の克殷後、周公は反乱鎮圧と制度化を推進し、宗族・礼楽・祭祀・官制を整えた。成王・康王期は「康寧」の時代と称され、王畿の直轄統治と諸侯の序列化が進んだ。

分封体制と宗法

西周は王族・功臣を諸地域に分封し、土を封じ民を与えることで地方支配を委任した。諸侯は卿・大夫・士を配し、宗族の嫡長子相続(宗法)により家と国の秩序を保った。王は冊命・朝覲・賜与を通じて主従関係を再確認し、違反には征伐を加えた。宗法は政治(家国同構)と祭祀(祖先崇拝)を結びつけ、統治の安定を担保した。

礼楽秩序と祭祀

王権は「礼」による行為規範と「楽」による調和理念で可視化された。宗廟祭祀では祖先に青銅礼器を用い、爵位・功績・血統によって器種や組合せが厳格に区分された。王の巡狩・朝会・冊命も礼の体系に組み込まれ、社会秩序は礼楽を通じて内面化された。

青銅器と金文

青銅器に刻まれた金文は、冊命・功績・祭祀を記録し、西周体制のイデオロギーと法的行為を伝える第一級史料である。器形の規格化や銘文の語彙には、階序と法度の観念が反映される。

土地と経済―井田制の実像

古典は「井田制」に言及するが、その実在は学術的議論が続く。少なくとも王畿では公田と私田の区分、賦役・貢納・徭役の体系化が行われ、周縁の諸侯国は在地慣行を取り込みつつ租税・兵役を担った。農耕は灌漑・鉄器以前の青銅・骨角器段階であったが、牛耕の普及や農具改良が生産を支えた。

都城と地理―鎬京と豊鎬

西周の王都は関中の鎬京(鎬京・酆鎬)周辺に営まれ、渭水流域の自然堀と台地が防御と行政の核となった。王畿は宗廟・宗邑・陵墓・作坊を備え、周辺の分封諸侯と幹線路で結ばれた。考古学は宮殿跡、銅器窖蔵、作坊遺構から王権の儀礼と生産の集中を示す。

官制と軍事

王に直属する卿士は政務・軍事・典礼を分掌し、冢宰・司徒・司馬・司空・司寇など職掌が整備された。軍は宗族的編成を基礎に歩・車を中核とし、諸侯軍を動員する連合戦の形式を取った。征伐は内乱鎮圧と周縁部族への威圧に用いられ、冊命秩序の維持装置であった。

暦法・度量衡

暦は祭祀・農事・軍事の調整に不可欠で、王畿の度量衡は諸侯への授与・統一の象徴として機能した。これら技術的標準は王権の可視的な権威を補強した。

政治史の展開

穆王期には遠征と王権伸張の伝承が広がるが、厲王の専断で社会不安が高まり、前841年に「共和行政」と呼ばれる合議的統治が生じた。宣王は中興を掲げ秩序回復を図るも、周縁の諸侯自立と外圧は強まり、幽王の末期に戎狄の侵攻で鎬京を喪失した。

東遷と体制崩壊

幽王の死後、王室は洛邑(洛陽)に遷り、ここに西周は終わる。東遷後の王権は名目化し、諸侯が主導する国際秩序(春秋の会盟・覇者)が展開する。西周の分封・宗法・礼楽は、以後の中国政治文化の基層となり、東周の多元的な国際関係を規定し続けた。

歴史的意義

西周は「天命による正統」「礼楽による秩序」「宗法による継承」「分封による統治」という四本柱を整え、帝国以前の広域支配のモデルを示した。青銅器文化と金文史料は国家と儀礼の自己記述であり、後世の法度・制度・思想に深い影響を及ぼした。王都喪失と東遷は体制の終焉であったが、その制度遺産は春秋戦国を通じて再解釈され、秦漢帝国の基盤へと継承されたのである。