羅針盤
羅針盤は、地球磁場に整列する磁針の向きを読み取り、方位を示す航法器具である。古代中国の「司南」に起源をもち、宋代には磁化針を水に浮かべる水羅針から、盤面目盛と指針を備えた装置へと発達した。地中海では12~13世紀に船乗りが磁針を用い始め、地中海商業圏の港市ネットワークで普及した。海では風向・潮汐・沿岸地形の記憶に、羅針盤と速度・時刻の測定を組み合わせるdead reckoning(推測航法)が成立し、港と港を一直線に結ぶportolan(沿岸海図)を生んだ。東アジアでも宋・元期に外洋航海が増え、水密隔壁を備えたジャンク船や季節風の読みと結びつきつつ、インド洋航路に広がった。こうして羅針盤は、イスラーム世界・欧州・東アジアを横断する交易の「共通言語」となり、のちの大航海時代の前提条件を整えた。
起源と原理
羅針盤の原理は、磁石(磁鉄鉱)や磁化した鋼針が地磁気に引かれておおむね北(磁北)を指す性質にある。古代中国の「司南」は磁石製の匙形を盤上で回し南を指したが、宋代には細い鋼針を磁化し、水面や薄い軸で自由に回転させる方式が広まった。11世紀の文人による記述には、磁針が真北からわずかに偏る現象(磁気偏角)への言及が見られ、実用に伴う観測が進んだ。地中海では12世紀末の文献が船乗りの磁針利用を記し、13世紀には乾式の盤面(rose)と指針を装備する形式が普及、港ごとの方位と距離を編んだ海図portolanが現れた。原理自体は単純であるが、針の感度・摩擦の低減・器差の補正といった工夫が性能を左右した。
形状と技術の発達
初期は水に浮かべる水羅針が主で、やがて中心軸で針を支え、周囲に32方位の目盛を刻む乾式コンパスへ移行する。船上では羅針儀の箱(binnacle)に収め、船体動揺を抑えるためにジンバル支持を用いた。16世紀以降は指針の上に方位盤(card)を載せて読みやすくし、近世末には液体で針の振れを減衰させる液体式が普及した。羅針盤は単独では緯度・経度を与えないため、速度(ログ)と時刻(砂時計)、高度観測器(astrolabeやcross-staff)と併用され、航程と針路の積算で位置を推定した。近代には偏角表と船体磁気による自差補正器が整い、外洋でも安定した方位保持が可能となった。
海域史における役割
地中海世界では、東方貿易をになうヴェネツィアとジェノヴァの商船が羅針盤を標準装備とし、護送船団と海事保険の制度化を後押しした。アドリア海の海洋共和国ヴェネツィア共和国は、港市間の針路管理とportolanの整備で遠隔売買の安全性を高めた。インド洋ではモンスーンを活かす航法に磁針が加わり、インド洋交易圏が一層緊密化した。東アフリカやアラビアのダウ船、南シナ海のジャンク船など地域の船型は異なっても、方位決定の共通基盤として羅針盤が働いた。こうした技術蓄積は、沿岸を連ねる短距離航行から外洋の直航へと戦略を拡張させ、大西洋進出の知的・制度的準備となった。
航海術・計測との統合
羅針盤がもたらした革新は、単に「北を知る」ことにとどまらない。船首線と羅針方位(針路)を基準に、風向と帆装、潮汐と沿岸目標の見え方(ベアリング)を数量化し、船内の記録(logbook)に体系的に残す文化を根付かせた。これにより、針路・距離・時間の三点から航跡を可視化でき、港湾間の所要や危険水域の共有知が蓄積した。地図制作では、方位線(rhumb line)を密に引くportolanが標準化し、都市・灯台・岬の相対配置が高精度化した。インド洋方面では季節風に合わせた出帆日程と組み合わさり、季節風貿易の安定を支えた。結果として、国際商館や関税制度、海事法など、航海の制度設計にも波及効果が生まれた。
東アジア・ユーラシア交流との関係
宋・元期の海上税関や港市の整備、船体の水密隔壁や多帆の最適化は、磁針の導入と相乗した。明初の冊封・朝貢秩序は公的な海上ルートを提供し、港市の安全と信用を担保した。こうして南シナ海からマラッカ、ベンガル湾へ連なる海の道は、磁針・季節風・制度の三位一体で機能し、香辛料・陶磁・金銀・絹織物の流通を拡大した。欧州側でも、地中海商業圏の経験が大西洋へ移植され、外洋の風系と潮流理解とともに、遠隔地貿易の規模が拡大した。技術は地域ごとに様態を異にしたが、方位という共通尺度を介して情報と制度の互換性が高まり、ユーラシアの海域史を横断する共通基盤が形成されたのである。
用語・運用上の補記
- 磁気偏角(declination):磁北と真北のずれ。海域・時代で値が異なるため、航海者は地域表で補正した。
- 自差(deviation):船体の磁化・金属装備による器差。近世以降は補正磁石や針路誤差表で低減した。
- 方位盤(compass rose):32方位の分割が一般的。読取りの基準線(lubber line)と併せて使用する。
- 液体式・乾式:液体式は減衰が大きく読取りが安定、乾式は応答が敏感。用途で選ばれた。