絹の道(シルクロード)
絹の道(シルクロード)は、古代から前近代にかけて東アジア・中央アジア・西アジア・地中海世界を結んだ長大な交易・交流のネットワークである。実態は一本の道路ではなく、オアシスを連ねる複線的な陸路、草原を横断する騎馬の道、そしてインド洋を横断する海上航路を含む重層的な通交圏であった。「Silk Road」という語は19世紀に普及したが、当時の人々は具体的な地名や隊商路の区間名で呼び、宗教・技術・制度・芸術もまた商品と同様に移動した。
起源と名称
古くはアケメネス朝からサーサーン朝期にかけて西域と地中海世界の交通が活発化し、漢帝国の張騫が西域に通じて以後、長安からタリム盆地を経て西アジア・地中海へ至る路が制度的に整えられた。19世紀に地理学者が「Silk Road」を広めたが、絹は多様な交易品の象徴にすぎず、道は時代や政権の盛衰に応じて分岐・合流を繰り返した。
地理と主要ルート
- オアシス路:敦煌—楼蘭—クチャ—ホータン—カシュガルといったタリム盆地外縁のオアシス都市を結ぶ。
- 草原路:ジュンガリアやステップ帯を横断し、騎馬民の移動力に支えられて極めて速い連絡を可能にした。
- イラン高原路:パルティア/サーサーンの領域を東西に貫き、地中海沿岸へと商品を中継した。
- 海上の道:南シナ海—インド洋—ペルシア湾—紅海をつなぎ、モンスーンを生かす航海術で大量輸送を実現した。
交易品と技術の移動
東からは絹織物・漆器・陶磁器・紙・茶などが運ばれ、西からはガラス器・ブドウ酒・香辛料・宝石・毛織物・銀貨がもたらされた。紙と印刷・火薬・羅針盤の技術群は、中間地帯の商人ネットワークを通じて西方へ伝播し、逆にブドウ栽培やガラス工芸の知見が東へ移入された。
宗教と文化交流
仏教はガンダーラ・クシャーンを経て東漸し、敦煌石窟や雲崗石窟に壮麗な遺構を残した。マニ教・ゾロアスター教・景教(東方キリスト教)も中央アジアに根を張り、後にはイスラームが広域に浸透した。文字・装飾文様・音楽・医薬・天文学の知識は、通訳兼商人であるソグド人らの活動によって共有化された。
政権と安全保障
隊商の安全は辺境統治と関所の整備に依存した。漢・唐の保護、サーサーン朝の治安、さらにはモンゴルの「Pax Mongolica」は広域の治安をもたらし、交通量を飛躍的に増加させた。一方、遊牧勢力間の抗争や疫病、砂漠化、課税強化は路線の迂回や衰退を引き起こした。
都市とキャラバンサライ
サマルカンド・ブハラ・メルブ・ニシャープール・カシュガル・敦煌などの都市は、倉庫・市場・宗教施設を備えた結節点であった。道路沿いのキャラバンサライ(隊商宿)は数十キロ毎に設けられ、宿泊・売買・情報交換の拠点として機能した。
海上のシルクロード
陸路の不安定化や大量輸送需要の増大に伴い、海上ルートの比重が高まった。宋代の泉州・広州は香料や陶磁の輸出港として繁栄し、インド西岸やアデン、ペルシア湾岸と結ばれた。イスラーム商人は保険・為替の仕組みを発達させ、季節風航海の合理化を進めた。
モンゴル時代の再統合
13世紀、モンゴル帝国の拡大により東西の政治・経済圏が再び緊密化した。駅伝制と護送により往来が促進され、マルコ=ポーロらの旅行記はこの時代の交流の厚みを伝えている。黒死病の汎ユーラシア的流行もまた、ネットワークの緻密化の裏面として理解される。
近世以降の変容
15〜16世紀の大航海時代は、喜望峰回りの外洋航路を通じてユーラシア連結の重心を海へ移した。オスマン帝国の台頭や東アジアの海禁・海防政策は陸路の比重を相対的に低下させたが、内陸アジアの通交は地方市場の連結として存続し続けた。
史料・考古と環境
敦煌文書やトゥルファン文書、各地のパピルス・紙文書、貨幣出土や染織品片は、価格・度量衡・契約実務を具体的に示す。オアシスの水利・砂丘の移動、氷期・乾燥化などの環境変動は路線選好を左右し、都市の盛衰を決定した。
交通技術と制度
ラクダと馬の複合利用、鞍・鐙・荷駄具の改良、隊商の共同出資や信用状の普及、度量衡・関税の標準化は長距離輸送のコストを引き下げた。為替手形や相場情報の流通は、遠隔地商業のリスクを抑制した。
用語と現代的意義
今日「シルクロード」は、文化交渉・技術移転・越境史のモデルを示す概念として再解釈される。単なる物資の通路ではなく、人・知・制度が相互に影響し合うダイナミックな接触帯であり、地域史と世界史を架橋する分析枠組みとして重要である。