王莽
王莽(前45-23)は、前漢外戚の名門に生まれ、儒教的理想を掲げて即位し、国号を「新」と改めた革新と復古の交錯する政治家である。彼は社会の再編をめざして土地制度・貨幣制度・官制を大規模に改変したが、度重なる自然災害と統治の混乱、そして各地で勃発した反乱により政権は短命に終わった。伝統の秩序を周礼に求めつつも、現実の経済と民生に対応しきれなかった点に彼の統治の限界があったと評価される。
出自と経歴
王莽は外戚王氏の一員として前漢朝廷で頭角を現した。質素を旨とする人格で知られ、儒学者や世論の支持を集めて高位に昇進した。政界では叔父の王鳳らの後継として権勢を握り、やがて幼帝を擁立して摂政となり、朝政の実権を掌握した。彼は礼制を重んじ、名分に基づく統治の再建を理想としていた。
権力掌握への道
王莽は外戚として朝廷の要路を抑え、内外の支持を背景に政治改革を進めた。帝位継承が相次いで不安定化するなか、彼は皇帝の名義を補いながら制度改編を進行させ、やがて前8世紀の周王朝を理想化する「復古」的な国家像を提示した。こうした布石ののち、紀元9年に自ら皇帝に即位し、漢を廃して「新」を建てた。
新の建国
新朝の創建後、王莽は旧来の制度を「周礼」に適合させる名分を掲げつつ、中央集権的な再編を強力に推し進めた。爵制・官名・郡国制の名称を改め、賦税・労役・軍役の体系を再設計した。彼はまた、戸口把握と土地台帳の整備を通じて国家が直接に人民と土地を把捉する体制を企図した。
制度改革の理念
王莽の改革は、社会的公正と秩序回復を標榜するもので、特に以下の理念に集約される。
- 土地と民の再配分を通じた富の偏在是正
- 貨幣・度量衡の統一による市場の安定
- 官僚制と地方支配の再編による中央権力の強化
- 礼制・名分の整備による統治の正当化
王田制と奴婢売買の制限
王莽は大土地所有を抑えるための「王田」理念を掲げ、田地を王有と見なし再配分の原則を打ち出した。これと連動して奴婢の私的売買を制限し、過度の人身支配を抑えようとした。狙いは中小農民の再建であったが、施行の現場では豪族の抵抗と運用の硬直が障害となり、効果は限定的であった。
貨幣・度量衡の再編
王莽は流通秩序の回復を目指して貨幣制度を再設計し、新たな銭貨や布貨を相次いで導入した。理論上は物価と交換の安定化を期するものだったが、種類の多さと頻繁な改定が市場を混乱させ、私鋳と偽貨の蔓延を招いた。度量衡の統一も掲げられたが、地方社会への浸透は不徹底にとどまった。
官制・地名の改変
王莽は官名を古制に準じて改め、地方行政区分や地名の変更も断行した。これにより古典的名分に合致した体系が整えられたが、実務面では新旧名称の併存が生じ、文書・命令系統に齟齬が発生した。儀礼的正統性の強化は象徴的効果をもたらした一方、行政効率はむしろ低下した。
経済混乱と自然災害
新朝期には貨幣改鋳や流通統制の失敗で交易が停滞し、物資不足と物価高騰が続いた。加えて黄河の氾濫など大規模災害が発生し、流民化と盗賊化が各地で進行した。救恤策や再配分策を掲げたものの、徴発の強化や頻繁な制度変更がかえって不信を生み、王莽政権の求心力は急速に低下した。
反乱の拡大と滅亡
社会不安のなかで緑林・赤眉などの武装勢力が台頭し、各地で官軍を圧迫した。23年の昆陽の戦いでは、王莽の大軍が少数の漢復興勢力に敗北し、戦局は決定的に傾いた。やがて長安は攻略され、王莽は未央宮で殺害され、新は滅亡した。旧漢の血統に基づく政権が再建され、後漢の時代が到来する。
評価と歴史的意義
王莽は、古典に根差した倫理政治の再興を目指した希有の改革者であった。他方で、理念先行と制度乱発が経済・行政の現場を混乱させ、非常時の統治能力に欠陥を露呈した。土地再配分や人身売買の抑制といった社会政策は先駆的意義を帯びるが、権力基盤の脆弱さと実務調整の不足が短命政権の主要因となった。後世の史家は、理想と現実の乖離を示す典型例として王莽を論じ、王朝交替の力学と制度設計の難しさを映す鏡像として位置づけている。