無敵艦隊
無敵艦隊は、1588年にスペイン王フェリペ2世がイングランド遠征のために編成した大艦隊である。宗教改革後の欧州政治と海上秩序の再編を背景に、エリザベス朝イングランドの私掠活動やネーデルラント支援を抑え、英仏海峡を制してカトリック勢力の優位を回復する構想であった。一般に「Armada」あるいは「Armada Invencible」と呼ばれ、日本語では慣例的に無敵艦隊と訳される。遠征は英仏海峡の一連の海戦、とくにグラヴェリン沖での決戦と荒天により失敗し、多数の損耗を出して帰還した。だが、この挫折は直ちにスペイン帝国の没落を意味せず、対英戦は継続し、地中海や大西洋での勢力はなお強大であった。
背景
計画の根底には宗教対立と覇権競争があった。イングランドはプロテスタント国家として台頭し、海上では私掠船がスペイン船団を攻撃し、北部では八十年戦争の渦中にある反乱州を支援していた(のちのオランダ独立戦争)。一方、スペインはレパント(1571)でオスマンに勝利し海軍威信を高めていた(レパントの海戦)。こうした対立のなか、英女王の政策転換を迫り、反乱鎮圧を主導する構想として無敵艦隊が構想された。反乱側の政治的象徴としてのオラニエ公ウィレムの存在や、商都を擁するオランダ勢力の粘り強い抗戦は、計画を一層切迫させた。
計画と編成
無敵艦隊は、1580年のスペインのポルトガル併合で利用可能となった大西洋岸の軍港と航路を活用して組織され、艦船約130隻、砲数千門、兵員数万人規模の大遠征となった。将軍サンタ・クルスの死去後、メディナ=シドニア公が総司令として指揮を執り、英仏海峡を突破してフランドルにいるパルマ公の陸軍と合流、上陸軍を護送するのが作戦の骨子であった。だが、海峡での錨地確保、潮汐と風向、連絡の遅延、そして補給体制の脆弱さが早くから弱点として指摘されていた。作戦は海軍単独行ではなく、南ネーデルラントの軍事状況とも密接に連動していたのである。
戦闘の推移(1588年)
艦隊は大西洋を北上して英仏海峡へ進入し、イングランド艦隊(ハワード、ドレイクら)の追撃・側面攻撃を受けながらドーヴァー海峡を通過してカレー沖へ投錨した。夜間、英側は火船を放って陣形を乱し、翌日のグラヴェリン沖で長距離砲戦を仕掛けた。機動性の高いイングランドのレース・ビルト・ガレオンは旋回射撃を繰り返し、接舷白兵の好機をうかがうスペインの想定を崩した。損傷と風向に押されたスペイン艦隊は北海へ退き、スコットランド・アイルランド沿岸を迂回して帰還を試みたが、荒天と座礁、疫病により被害は拡大した。こうして無敵艦隊の遠征は挫折し、イングランド側の防衛成功は国民的記憶となった。
敗因の分析
- 戦術思想の差異:英側は砲戦重視で船体を破壊する遠距離射撃を採用し、スペイン側の接舷戦志向は生かしにくかった。
- 指揮・連絡の難しさ:海峡でパルマ公軍と連携する作戦構造が複雑で、潮汐・風向と敵妨害で実現困難となった。
- 兵站と衛生:長航海に伴う水・食糧・火薬の劣化、壊血病や赤痢などの疾病が戦闘力を低下させた。
- 気象要因:夏季の変化しやすい強風と浅海域の潮流が艦隊運用を制約し、退避航程での被害を拡大させた。
加えて、英艦の船体設計や砲架改良、弾薬補給の継続性といった技術・整備面の差も無視できない。逆に言えば、無敵艦隊の失敗は単一原因ではなく、戦術・補給・連携・気象の複合的相互作用として理解されるべきである。
影響と評価
無敵艦隊敗退は「神風」的叙述とともにイングランドの勝利神話を強化し、国家的自己像の形成に寄与した。他方でスペインは大西洋帝国としてなお強大であり、対英遠征の再企図も行われた。ネーデルラントでは反乱州の持久が続き、のちのユトレヒト同盟体制や海上商業の発展に波及する。帝国の首都マドリードを中心とする政策は再調整され、銀流通や通商防衛の再建が課題となった。結果として、英蘭の海上進出は勢いを増し、近世ヨーロッパの海洋秩序は再編へ向かった。スペインの「太陽の沈まぬ国」という自己像は維持されつつも、海峡の現実がその限界を露呈したのである。
用語と史料
「Armada」は本来「艦隊」の意で、「Invencible(無敵)」は後代の呼称として広まった側面がある。プロテスタントとカトリック双方の宣伝・記録が史料像を彩るため、研究では誇張を排し、艦種構成、砲術、補給、気象記録の突き合わせが重視される。日本語史学では無敵艦隊の表記が一般的であり、英仏海峡における作戦術の転換点として位置づけられている。