明のベトナム支配
明のベトナム支配は、陳朝末の動揺と胡季犛の簒奪を口実に、明が1406年に軍を進めて北部ベトナムを征服し、1407年から1427年まで直接統治した時期を指す。征服後、地域は「交趾布政使司」として再編され、明制の三司・府州県による行政が敷かれた。戸籍・税・労役の再編成、鉱山・塩・香木など資源の管理強化、学校・孔子廟の整備と科挙的教養の導入が並行し、現地社会の枠組みを明王朝の制度へ適合させる政策が進められた。他方で、苛烈な物資徴発と文化・慣習への介入は在地層の反発を招き、黎利の蜂起へと結びつく。1427年の明軍撤退により独立が回復し、後黎朝が成立した。
背景―陳末の混乱と明の介入
14世紀末の大越では王権の動揺と外患が重なり、胡季犛が簒奪して新王朝を称した。明は「討胡復陳」を掲げて紅河デルタへ侵攻し、行政・軍事の中心を速やかに掌握した。かつて漢帝国の郡県が設置された交趾郡の歴史記憶は、北部社会における中国王朝との長期的接触を物語る。同じく古代からの対中関係の基層には、海岸南方の日南郡や対漢蜂起として知られる徴姉妹の反乱などがあり、外来支配と自立志向の往還が重層的に存在した。
征服と併合―「交趾布政使司」の設置
明軍は1406年に主要拠点を制圧し、翌年に地域を正式に併合した。行政面では布政使司・按察使司・都指揮使司を中核として、府・州・県の階層を再配置し、里甲・戸籍・倉法によって徴税と労役を可視化した。軍事面では城砦・駅伝・水運を要衝に配備し、北は広西・雲南との連絡を保ちつつ、紅河流域の運搬路を掌握した。宗廟・学宮の整備は文治統合の象徴であり、典籍の授受や訓詁・律令の運用を通じて、地方官の実務も明式に統一された。
統治の実像―財政・社会・文化政策
財政では銅・銀・香木・象歯などの専売・輸送が強化され、塩・酒・海商に対する規制と課徴が拡大した。衣冠・髪制・姓氏の改易や寺社・碑記の整理など、文化面での同化策は現地の習俗に緊張をもたらす。他方、郷校・社学の整備は儒学的素養の普及を促し、科挙的作文・経義の学修が広まった。こうした制度輸入は、のちの後黎朝が採用する官僚制の雛形ともなり、支配の傷痕と制度の遺産が同時に残された。
抵抗と独立回復―黎利の蜂起
苛烈な徴発と在地勢力の抑圧は反抗を連鎖させた。1418年、黎利は山地と水郷の地形を生かして持久戦を展開し、遊撃・城砦攻略・補給遮断を組み合わせて勢力を拡大した。やがて諸将の離反や補給の困難に直面した明軍は劣勢となり、1427年に撤兵を余儀なくされる。翌年、明は冊封関係の枠内で後黎朝を承認し、地域は形式的朝貢と実質的自立の関係へと回帰した。ここで培われた軍政・文治運営の経験が、独立後の国家運営の基盤となる。
地域秩序への影響
明の介入は東南アジア海域と華南内陸の接続様式を変化させ、港市交易・陸上物流・冊封儀礼を再結合させた。海域ネットワークの文脈では、季風と港市が結ぶインド洋交易圏との接点が強まり、香辛料や金属資源の流通に新たな回路が生まれた。北方の都城再編では、元末から明初に至る首都空間の変容(大都から燕京へ)とも連動し、朝貢・外交・防衛の設計が組み替えられた。かくして、大越の独立回復は地域秩序の再均衡をも促し、周辺諸政権は新たな権力分布への適応を迫られた。
史料・記憶と評価
この時期の記録は王朝側の公文書と在地の記憶が交錯し、支配の実態把握において緻密な読解を要する。統治の遺制は後黎朝の制度編成に持続し、他方で外来支配への反発と自立の記憶は民族叙述を形成した。中国とベトナムの関係史のうち、接触・摩擦・学習の三層が最も凝縮して現れた事例であり、古代以来の対中関係をアジア広域史の文脈で位置づけ直す手がかりとなる。前史と独立国家の形成については、ベトナムの国家像を扱う大越国、東アジアの権力移行を概観する東アジアの勢力交代も参照に適う。