岳飛|抗金の忠義を貫いた南宋の名将

岳飛

岳飛(1103–1142)は南宋の名将であり、女真の金に対する抗戦を主導した人物である。字は鵬挙、相州湯陰(現・河南省湯陰県)の出身で、口号「尽忠報国」で知られる。北宋末の動乱と靖康の変によって華北が失陥すると、南へ退いた宋高宗政権は軍制の立て直しを迫られ、岳飛は規律厳正な「岳家軍」を編成して中原奪回を目指した。1140年の郾城や1141年の朱仙鎮で勝利を重ねたが、和議を望む朝廷の方針転換により召還され、翌1142年に「莫須有(根拠薄弱)」の罪で杭州・風波亭にて処刑された。のちに冤罪は雪がれ、杭州西湖畔の岳王廟に祀られ、忠義の象徴として記憶されている。

出自と時代背景

岳飛は質素な家に生まれ、若くして弓馬に熟達した。12世紀初頭、女真が建てた金が勃興し、北宋は西方の西夏・北方の金に圧迫されていた。1127年の靖康の変で徽宗・欽宗が北へ連行されると、康王趙構が江南で即位して南宋が成立した。金(Jin)は河北・中原を押さえ、長江以南も度々侵入したため、南宋は守勢から反攻へと方針を模索することになり、ここに岳飛の軍功の舞台が整ったのである。

岳家軍の形成と指揮

岳飛は編成・補給・規律の三点を重視した。兵士の私掠を禁じ、民田を荒さぬことを徹底し、軍紀違反には厳罰を科した一方で、戦功には明確な賞を与えた。主力には精鋭の背嵬軍を置き、機動・防御・攻城を状況に応じて切り替える柔軟な運用を取った。江漢・荊襄方面を拠点に、漢水から淮河へと線形の補給路を確保しつつ反攻し、失地回復の端緒を開いた点に岳飛の軍政家的資質が現れている。

主な戦闘と戦術

  • 郾城の戦い(1140年):金の名将兀朮の軍を各個撃破し、歩騎の連携で正面突撃を受け流して側面から圧迫した。長江以北での南宋反攻に自信を与えた戦いである。
  • 朱仙鎮の戦い(1141年):黄河・汴水沿いの要地を確保し、補給遮断で金軍の機動を鈍らせた。開封方面への進出可能性が現実味を帯びた。
  • 襄陽・鄭州方面での転戦:城郭線を利用した遅滞戦と、平地での決戦を組み合わせ、消耗を抑えつつ戦果を積み上げた。
  • 戦術的特色:弓弩と長槍の層状配置、騎兵の反復突撃、地形選好(河川・湿地)を活かした防御からの反転攻勢が核となった。

政争と処刑

勝利が重なる一方、朝廷では講和派が勢力を強めた。皇帝高宗は臨安の安定を優先し、宰相秦檜は対金講和を推進した。伝説的な「十二道金牌」に象徴されるように撤兵命令は相次ぎ、前線の主将である岳飛は帰還を余儀なくされた。1141年の紹興和議成立後、岳飛は張憲・岳雲らと共に謀反嫌疑で拘束され、1142年、杭州の風波亭で処刑された。罪状は「莫須有」と記録され、法理の脆弱さが当時から指摘されてきた。

名誉回復と歴史的評価

南宋の孝宗は1163年に冤罪を雪ぎ、岳飛を追贈して廟祀を許した。杭州西湖畔の岳王廟には跪拝像の秦檜夫妻像が置かれ、忠奸の対比が道徳的教訓として視覚化された。後世、中国では岳飛が「精忠」の体現として教育・文学・演劇で称揚され、国土回復の志と清廉な軍紀が理想化された。他方で、対外戦略と内政安定の優先順位をめぐる政略的妥協の産物として彼の悲劇を位置づける見解もある。

史料と記憶の形成

岳飛については『宋史』列伝のほか、孫の岳珂が編んだ『鄂王行実』や『金陀粋編』が重要史料となる。通俗文学では『説岳全伝』が有名で、史実に脚色を加えつつ忠義の物語を普及させた。碑文・廟制・地方志など非正史資料も多く、記憶の重層性が近世・近代のナショナル・アイデンティティ形成と結びついたことが指摘できる。

年表(主要項目)

  • 1103年:相州湯陰に岳飛誕生。
  • 1127年:靖康の変、南宋成立。
  • 1130年代:荊襄を拠点に岳家軍が反攻基盤を整備。
  • 1140年:郾城で金軍主力を撃退。
  • 1141年:朱仙鎮で勝利、直後に召還命令が累次下る。
  • 1142年:杭州風波亭で岳飛処刑(張憲・岳雲も刑死)。
  • 1163年:孝宗が冤罪を雪ぎ、追贈と廟祀を許可。