大空位時代|皇帝空位で諸侯と都市が台頭

大空位時代

大空位時代とは、神聖ローマ帝国において皇帝位が事実上空位となり、帝国の統治が選挙王権と諸侯合議に依存した時期である。一般に西暦1254年(コンラート4世没)から1273年(ハプスブルク家ルドルフ1世の選出)までを指し、フリードリヒ2世没後に顕在化した皇帝権の空洞化が、選帝侯団の発言力拡大、諸侯の領邦化、都市同盟の自衛的連帯、そして教皇庁の仲裁・介入という諸現象を同時進行させた点に特色がある。複数の対立王が互いに承認基盤を争い、封建的な私闘(Fehde)や陣営政治が頻発した一方、帝国平和(Landfriede)を志向する連合も生まれ、後世の法秩序と選挙手続の整備につながった時代である。

背景と期間設定

フリードリヒ2世(1250年没)の逝去後、後継のコンラート4世が1254年に没すると、帝国の「統一的君主権」は決定的に弱まった。以後、リヒャルト・フォン・コーンウォールとカスティーリャ王アルフォンソ10世が1257年に並立して「ローマ王」を称し、地域ごとに支持が分裂した。これにより帝国等族会(諸侯・身分団体)の比重が増し、帝国全体の政策は合意形成なしに進みにくくなった。年代区分は学説に差があるが、多くは1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が選出され、対立王並立の局面が収束した時点を終期とする。

選挙王権と選帝侯の台頭

この時期には、選帝侯(Kurfürsten)の法的地位と手続が慣行として固まり、後の1356年「金印勅書」で成文化される下地が形成された。大司教(マインツ・トリーア・ケルン)と世俗諸侯(ボヘミア王・プファルツ伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯)を中心とする選挙団は、王権承認の可否を左右し、対価として特権や領土的承認を獲得した。王権は「選挙で授けられ、遵守すべき誓約に拘束される」性格を強め、諸侯合議のもとでの限定君主制的な色彩が濃くなったのである。

諸侯権力の伸張と領邦国家化

皇帝不在が長引くと、各地の諸侯は裁判権・課税権・貨幣鋳造権・関税権などを自らの領域内で拡充した。帝国直轄地が分散し、王権の保護を欠いた辺境では在地領主の自衛が制度化され、のちに「領邦国家」と呼ばれる政治単位の核が育つ。封建私闘は治安を脅かしたが、同時に地域平和令(Landfriede)や封土契約の文書化が進み、慣習法の明文化と裁判手続の整備が進展した点も見逃せない。

都市と経済の動態

13世紀半ばの商業活性化は、都市の自立性を押し上げた。帝国都市・自由都市は市参事会を強化し、商人ギルドと同職ギルドが秩序維持に関与する。1254年にはライン諸都市が「ライン都市同盟(Rheinischer Städtebund)」を結成し、交易路の治安確保と通行税の調整、傭兵・略奪への共同対処にあたった。こうした都市同盟は恒久的ではなかったが、経済圏の自律と公共財の供給を自治的に担う先例を作った点で画期的である。

教皇庁の関与と対外環境

教皇庁は帝国の王位問題に仲裁者・承認者として関与し、しばしば候補者選定や戴冠に影響力を行使した。これは皇帝権力の弱体化につけ込む干渉ではあるが、一方で国際秩序の安定を図る意図もあった。対外的には中欧でボヘミア王プシェミスル・オタカル2世がオーストリア・シュタイアーマルクへ勢力を拡げ、帝国の均衡を揺るがした。これに対し、1273年に選出されたルドルフ1世はハプスブルク家の基盤を築き、1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカルを退け、中欧秩序の再編に道を開いた。

制度的成果と長期的意義

空位期は無秩序の時代との印象が強いが、実際には「合議と契約」に基づく統治の骨格が形成された。王の選出手続、戴冠前誓約(Wahlkapitulationen)の原型、身分制会議の議決慣行、領邦の裁判・租税・軍役の規範化、都市の自治と同盟による公共秩序維持は、いずれも後世の制度に連続する。とりわけ選帝侯団の権限と投票慣行は、14世紀半ばの金印勅書で「法」として固定化され、帝国の多元的構造を定めた。かくして大空位時代は、強力な一君主の欠如という負の契機から、法的多元性と分権的統治という帝国固有の持続的枠組みを生み出した時代である。

年代と用語の注意

学術文献には、空位期の起点を1250年(フリードリヒ2世没)に置く用法や、終期をルドルフ1世の即位後もしばらく延長して帝権の再建を観察する見解もある。さらに「対立王」の正統性評価と地域の支持分布には差があり、帝国の複合性を反映する概念である点に留意すべきである。

キーワード

  • 選帝侯・選挙王権・帝国平和(Landfriede)
  • 封建私闘(Fehde)・領邦国家化・帝国都市
  • ライン都市同盟・ボヘミア・ハプスブルク・マルヒフェルト
  • 金印勅書・身分制会議・王権誓約