吐谷渾
概要
吐谷渾は、鮮卑系慕容部の一族が4世紀初頭に東北から西進し、青海一帯(青海湖・祁連山・河湟谷地)に建てた遊牧国家である。5~7世紀にかけて南北朝・隋・唐と西域・チベット高原を結ぶ交通路を抑え、草原世界と華北王朝・西域オアシス社会を仲介した。政治は可汗号を称する君主と部族連合の合議により運営され、経済は牧畜を基盤に、塩・馬・毛皮などの交易収入に依存した。唐太宗期の軍事介入後に勢力は弱体化し、7世紀半ばに吐蕃(チベット帝国)の圧迫で崩壊、残余は唐領内に編入・移住した。名称は建国者の人名に由来し、文献では「吐穀渾」「都貨羅」などの表記揺れも見られる。
成立と移動の過程
建国者の吐谷渾(人名、慕容氏系)は、遼東方面から部衆を率いて西走し、河西回廊の外縁を経て祁連山脈・青海湖周辺に定着した。4~5世紀、華北の各政権(北魏・西秦・北涼など)との戦闘・通好を反復しつつ勢力圏を拡大し、敦煌から張掖へと連なる交易網の南側(青海・ヘホアン渓谷)を押さえた。6世紀の北周・隋の対西方政策と拮抗しながら存続したが、部族連合の内部対立と周辺列強の伸長が持続的な圧力となった。
地理と政治構造
吐谷渾の本拠は青海湖(Kokonor)を中心とし、柴達木盆地・河湟谷地・祁連山北麓を含む広域に及んだ。拠点は季節移動を伴う遊牧野営と要害性の高い城柵が併存し、交通の要衝(峠口・塩湖・水場)に駐屯点を設けて関税・通行管理を行った。統治は可汗(大首長)を頂点に、王族・貴種の分封と婚姻関係で部族間の均衡を図る方式で、漢字文書の受容や官職名の採用も限定的に進んだ。
経済と社会
経済の核は馬・羊・ヤクなどの牧畜で、移動に適した軽量のテント住居と皮革・毛織技術が発達した。塩湖群に基づく塩の採取・販売、回廊交易路の保護と引き換えの課徴・贈与、駱駝隊の護送請負などが財政を支えた。被支配民にはオアシス農耕民・工人も含まれ、陶器・金工・木簡文書の出土は多文化的な生業の併存を示す。社会は氏族・同盟関係に基づく層序を持ち、戦士集団の名誉と戦利分配が政治的忠誠の基盤となった。
対外関係と戦争(北朝・隋・唐・吐蕃)
北魏とは時に通婚・朝貢、時に辺境衝突という揺れを見せ、隋の統一後も青海周辺の秩序をめぐって軋轢が続いた。唐初、太宗は西域戦略の一環として吐谷渾に遠征を行い(7世紀前半)、可汗権は一時的に唐の冊封秩序に組み込まれる。だが同時期に台頭した吐蕃が河湟・青海をめぐって圧迫を強め、7世紀半ばに決定的な敗北を被って解体。最後の可汗とされる慕容諾曷鉢は唐に帰順して辺州に安置され、旧部衆は唐の羈縻州・都督府体制下に再編された。
文化・宗教・言語
吐谷渾は鮮卑系の言語文化を持ちつつ、漢字文化圏の制度・仏教・道教儀礼を選択的に受容した。仏教はオアシス経由で早くから浸透し、僧侶の往来・仏典流通・石窟信仰が確認される。埋葬は騎馬遊牧的要素(馬具・武器副葬)と漢式要素の混淆が見られ、装身具・金銀器には草原的モチーフと中原工法が併存する。王族の称号・儀礼は可汗制と漢式冊封が重層化し、外交文書では漢文・音写が併用された。
歴代と年表(簡略)
- 4世紀初:慕容系の吐谷渾が西走、祁連・青海に定着し部族連合を樹立。
- 5~6世紀:北朝諸国と抗争・和親を繰り返し、青海交通の要衝を掌握。
- 581~618(隋代):回廊秩序をめぐり隋と緊張、周辺オアシスへの発言力を維持。
- 7世紀前半(唐初):唐の遠征・冊封を受けつつ存続。
- 7世紀半ば:吐蕃の侵攻により壊滅、残党は唐領へ移住・編入。
史料と研究
基本史料は『魏書』『周書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』諸志・列伝で、青海・河湟の考古学成果やオアシス都市の文書・石刻が補う。遊牧国家論・世界システム論の観点からは、吐谷渾は「草原の道」と「シルクロード」の分岐点で中継的役割を果たし、唐と吐蕃のはざまで交通と情報のボトルネックを握った国家として位置づけられる。言語系統(鮮卑=モンゴル系か)や仏教・在地信仰の接合、唐編入後の部族編制の追跡は、今後の細密研究が期待される。
意義
吐谷渾は、東アジア内陸縁辺において政治的クッションと物流のハブを担い、華北諸王朝・西域・チベット高原・タリム盆地を結ぶ広域秩序の形成に寄与した。青海における可汗制国家の経験は、唐の羈縻・都護体制の運用実験場ともなり、また吐蕃台頭の前史として高原国家の拡大ダイナミクスを理解する鍵となる。