占城稲|華南開発と二期作を牽引する早熟米

占城稲

占城稲は、中部ベトナムのチャンパー(占城)起源とされる早熟・耐旱性のイネ品種であり、北宋期に中国へ伝来して広域に普及した米である。とくに占城稲は成熟が早く、日照や降水の変動に強いため、作期の組み替えや二期作を容易にし、収穫の安定化をもたらした。これは代後期に人口と都市が急増する基盤となり、長江下流の江南で灌漑・排水の改良と結びついて飛躍的な増収を実現した。水田中心の稲作農業に新たな時間軸と生態的適応を与えた点に、占城稲の歴史的意義がある。

起源と伝播

占城稲は、10〜11世紀頃に海上ルートを通じて華南へもたらされたと理解される。諸政権間の贈与・貢献関係(いわゆる朝貢秩序)や、モンスーンを利用した季節風貿易が移入の回路となり、福建・広東から浙江・江蘇へと栽培圏が拡大した。各地の官司は種籾の分配や作付け指導を行い、在地の経験知(播種期・灌漑量・除草法)と融合して、地域適応型の作期編成が確立していく。こうして占城稲は、南方の多雨・高温環境に対応した実用作物として定着したのである。

形質と栽培適性

占城稲の強みは、早熟・耐旱・広い作期幅に加え、痩せ地や水利が安定しない区画でも一定の収量を確保できる点にある。成熟までの期間が短いことは、台風期や長雨期を避ける柔軟な作期設計を可能にし、冷害・旱害の年でも損失を抑えた。加えて、牛耕鉄製農具の改良と併走することで耕起・代かき・移植の効率が高まり、播種から収穫までの作業日程を圧縮できた。こうした技術複合により、占城稲は新旧の水田景観に素早く適応したのである。

二期作と耕地拡大

占城稲の早熟性は、麦や雑穀との輪作、早稲・晩稲の組み合わせによる二期作体系を現実的にした。堤防や樋門を備えた低湿地の新田でも、作期の前倒しと収穫の分散が可能となり、労働配分の平準化とリスク分散が進む。結果として、河川氾濫原や微高地を含む幅広い地形で耕地化が促進され、村落の年貢負担能力と自立的な備荒力が底上げされた。占城稲は、景観改変を伴う開発を収量面から後押しした作物であった。

市場・都市・財政への波及

増収は米の恒常的な余剰を生み、集荷・輸送・販売の分業を促進した。米は都市の食料・賃金財として決定的比重を占め、地方市場は大運河系や沿岸航路の流通網に接続される。とりわけ占城稲の普及は、穀倉化した長江下流の都市群、とくに建康圏の消費を支え、貨幣流通と信用取引の拡大を牽引した。租税・軍需・施政の安定にも寄与し、国家財政の収支構造に長期的な影響を与えたと評価される。

知識の制度化と普及政策

占城稲の栽培知は、播種暦・苗代管理・中干し・施肥配合などの細目が在地で共有され、農書・郷約・官主導の講習などを通じて標準化が進んだ。官倉の種籾備蓄や貸付、干ばつ時の非常作付け手順は、災害後の迅速な再生産を可能にする。さらに、水利・圃場整備と併せて圃区の均平化が行われ、占城稲のポテンシャルを最大限に引き出す基盤が整備された。普及は単なる品種移入ではなく、制度・インフラ・知識の組み替えを伴う社会的プロジェクトであった。

海域交流と文化接触の文脈

占城稲の移動は、香料・陶磁・金属製品など多様な物資と人的往来が交錯する海域ネットワークの一断面である。港市の商人・通事・船主は、種籾という生物資源の移送にも関与し、作柄情報や価格動向を併せて運んだ。こうして技術・知識の拡散は、軍事や外交のみならず、日常の糧を支える作物レベルで連結され、南方世界の生態・文化と華中・華北の社会経済が結びついていく。占城稲は、その象徴的成果といえる。

名称・表記と用語

占城稲の読みは「せんじょうとう(いね)」とされ、史料や地域で表記に揺れがある。英語では半角で“Champa rice”と表記するのが一般的である。名称は起源地名に由来するが、実際の栽培は複数の系統・系譜を含み、在地の交配や選抜で多様化した。史料では早稲・早熟稲の一群として言及される場合があり、当時の技術語との対応づけには注意が要る。いずれにせよ、名称の背後にあるのは、気候と作期に対する柔軟な適応戦略である。