南アフリカ戦争|イギリスとボーアの植民地戦争

南アフリカ戦争

南アフリカ戦争は、イギリス帝国とトランスヴァール共和国・オレンジ自由国のボーア人共和国とのあいだで1899年から1902年にかけて戦われた戦争である。しばしば「第二ボーア戦争」とも呼ばれ、金鉱・ダイヤモンド鉱をめぐる利害と、イギリスの帝国主義的膨張政策が衝突した典型的事例として位置づけられる。この戦争は、南アフリカ地域の政治的統合とイギリス帝国の再編、さらには20世紀の人種隔離政策の前提を形づくる重要な転換点となった。

背景と開戦の原因

南アフリカ戦争の背景には、ケープ植民地やナタールなどイギリス支配地域と、ボーア人が建設したトランスヴァール共和国・オレンジ自由国との対立があった。特にトランスヴァールで金鉱が発見されると、イギリス資本や投機家、例えばロスチャイルド家と結びついた金融勢力が進出し、ボーア人政府との緊張が高まった。イギリスはこの地域を自国の植民地秩序に組み込もうとし、自治権を守ろうとするボーア側と利害が鋭く対立した。

戦争の推移と主要な戦闘

1899年10月、外交交渉が決裂するとボーア側が先制攻撃に出て南アフリカ戦争が始まった。当初はボーア軍が機動力と地形の熟知を生かし、ラディスミスやキンバリーなどを包囲するなど優勢であった。しかし本国から大軍を送ったイギリスは次第に戦力を挽回し、1900年にはボーア人首都プレトリアを占領して形式上の勝利を収めた。この段階で戦争は通常戦から長期の消耗戦へと性格を変えていった。

ゲリラ戦と焦土作戦

都市や鉄道を失ったのちもボーア人は騎兵部隊を中心とするゲリラ戦を継続し、イギリス軍の補給線や通信網を攻撃した。これに対しイギリス側は農場焼き払いなどの焦土作戦を行い、ボーア人住民やアフリカ人を収容所に集める政策をとった。収容所では劣悪な環境から多数の死者が出て、帝国の「文明使命」を掲げていたイギリス植民地会議期の道徳的正当性に大きな疑問を投げかけた。この経験は、帝国主義時代の暴力的側面を象徴する事例として後世に記憶されることとなる。

講和と南アフリカ連邦の成立

長期化による疲弊のなかで交渉が進み、1902年のフェリーニヒング条約によって南アフリカ戦争は終結した。ボーア共和国はイギリス王の宗主権を受け入れる代わりに一定の自治とオランダ語使用の承認、復興資金の供与などを認められた。その後ケープ植民地やナタールと統合され、1910年にはカナダ連邦やオーストラリア連邦と同様に「ドミニオン」として位置づけられる南アフリカ連邦が成立した。これはイギリス帝国内部で自治権を持つ白人支配国家が並立する新しい構造の一環であった。

帝国主義と人種政策への影響

南アフリカ戦争は、帝国内外に大きな衝撃を与えた。イギリス本国では戦争の長期化と収容所政策への批判が高まり、帝国主義のあり方をめぐる議論が活発化した。一方、勝利後の南アフリカ連邦では、ボーア人とイギリス系白人の妥協のもとで黒人やカラードを政治から排除する制度が強化され、後のアパルトヘイト体制の基礎が形づくられた。この意味で、ベルエポックと呼ばれる楽観的な時代の背後で、暴力的な民族支配が進行していたことを示す象徴的事件でもあった。

帝国ネットワークの中の戦争

南アフリカ戦争には、カナダやニュージーランドなど他の植民地・ドミニオンからも義勇兵が参加し、帝国ネットワークの一体性を示した。戦費の調達にはスエズ運河株買収以来の金融ネットワークが活用され、戦後の統治構想にはジョゼフ=チェンバレンらの帝国連邦構想が影を落とした。このように本戦争は、世界規模で展開した帝国主義体制の中で位置づけられるべき出来事である。