北匈奴
北匈奴は、1世紀中頃の匈奴内部の分裂(建武24年=48年)によって成立した北方系の政治共同体である。ゴビ砂漠以北のモンゴル高原を主たる活動圏とし、従来の匈奴連合の継承者を自任して後漢・南匈奴・鮮卑などと対峙した。西域諸国への影響力を維持しつつ、家畜遊牧と機動戦を基盤とした王権(単于)を中心に、複数の部族がゆるやかに結合した連合体を保った点に特徴がある。
起源と分裂
48年、単于位をめぐる内紛が激化し、漢と和親を志向して南下・帰順した勢力と、高原に残って独立を保持した勢力に割れた。後者が北匈奴であり、旧来の祭祀・軍事の中枢を押さえつつ、オルドス方面へ移った南匈奴と鋭く対立した。分裂は匈奴の求心力を弱めたが、北側は草原の広大な機動空間を背景に、なお連合の正統を称し続けた。
地理と社会構造
勢力圏はアルタイからハンガイ山地を含むモンゴル高原北縁に及び、季節移動に合わせた牧地の循環利用が行われた。単于を頂点に貴族層と部族長が分権的に諸部を統轄し、婚姻・盟約・人質(質子)などの慣行が結合を補強した。軍事は騎射に長じた軽騎兵が主体で、急襲と退却を巧みに組み合わせて敵の補給線を攪乱した。
後漢との抗争
後漢は西域経営の再建と北辺防衛のため、たびたび遠征軍を発した。73年の班超の活動再開、88〜89年の竇憲の大規模討伐は転機となり、燕然山に戦功を刻む碑文(燕然勒石)が立てられた。これらの軍事行動に南匈奴が協力したことで北匈奴は草原内での拠点を喪失し、勢力圏は大きく後退した。
燕然勒石
89年、竇憲軍が漠北深く進撃して北匈奴を破った記念として、燕然山に功績を刻んだ。碑文は後漢が草原戦線で主導権を回復した象徴とされ、以後の北方政策に自信を与えたと理解される。
西域支配とシルクロード
北匈奴はタリム盆地のオアシス諸国に朝貢・人質・護送の圧力をかけ、交易路の掌握を図った。これに対抗して後漢は西域都護を復置し、班超らが帰順と保護の網を編み直した。西域諸国は軍事的・経済的便益を秤にかけながら両勢力の間で均衡外交を展開した。
鮮卑・烏桓との角逐
東方草原では鮮卑が台頭し、烏桓も局地的圧力を強めた。鮮卑の連合強化と馬資源の拡充は、衰退期の北匈奴にとって新たな脅威となり、草原の軍事力学は匈奴一強から複合的競合へと変化した。
衰退と西走
89〜91年の連戦敗北後、連合は分解が進み、一部はイリ盆地や康居方面へ退いた。その後の行方については諸説があり、中央アジアの諸勢力に吸収されたとみる説、のちの西方の遊牧連合との系譜関係を論じる説などがあるが、直線的な同一視には慎重であるべきだとされる。
文化と考古資料
モンゴル高原の墳墓群(ノイン・ウラなど)からは、毛織物・漆器・中国系絹織物の断片、金属製の馬具や装飾具が出土し、草原製作技術と周辺文明との交換が並立した姿がうかがえる。具象・動物文様は連合の象徴表現として機能し、王権の儀礼世界を支えた。
ノイン・ウラ古墳群
豪華副葬品と有機資料の保存で知られ、匈奴時代の衣装・馬具・木工技術を具体的に復元する手がかりを与える。交易ネットワークの広がりを示す舶載品の混在も注目点である。
制度と単于権力
単于の権威は軍事的成功と分配能力に依存し、外征の戦利品・朝貢財の再配分が諸部族の忠誠を支えた。継承は兄弟相続・甥相続が交錯し、時に抗争の火種となった。漢との間で交換された人質は、外交の保証と同時に文化接触の媒介でもあった。
経済基盤と軍事戦術
経済は大牧畜を中核に、獣皮・馬・副産品の交易で補強された。軍事面では、騎射集中・偽退・遠距離索敵が基本で、補給を家畜に依存する自律性が長距離遠征を可能にした。一方で干魃や疫病は直撃し、資源の局地的偏在は政治的求心力を左右した。
史料と評価
『漢書』『後漢書』など中国側記述に依存するため、敵対的叙述や誇張の可能性がある。考古学・環境史・動物考古学の成果を突き合わせる作業が、北匈奴像の再構成に不可欠である。西方史料との対話的検証が、移動・統合・同化の実像を描き出す手がかりとなる。
年表(概略)
- 前1世紀末〜1世紀前半 匈奴連合の動揺が進行
- 48年 分裂、北方勢力として北匈奴が成立
- 73年 後漢が西域経営を再開、対立先鋭化
- 88〜89年 竇憲の大遠征、燕然勒石
- 91年頃 草原中枢を喪失、連合分解が加速
- 2世紀前半 鮮卑の台頭で草原秩序が再編