党錮の禁
党錮の禁は、後漢後期において清議派・名士層(いわゆる「党人」)が、朝廷の実権を握る宦官勢力によって弾圧され、官界からの追放や資格停止(錮)が科された一連の政治事件である。一般に166年(桓帝期)の第一次と、169年(霊帝期)の第二次に大別され、184年の大赦で解除されるまで断続的に影響を及ぼした。弾圧は個々の官僚を越えて、郷里に根差す名士ネットワーク全体を標的とし、後漢政権の信頼を損ない、地方における自衛・結束を促した点で中国政治社会史上の画期をなす。
歴史的背景
後漢は都を洛陽に置き、儒教的秩序に基づく官僚制を整えたが、中期以降、皇帝幼少期の政権を巡って外戚と宦官が交互に専権化した。財政難、豪族による土地・人身の囲い込み、賄賂の横行が重なり、公論を重んじる清議派は道徳的批判を強めた。これに対し、宮廷内部の権力は世論を抑え込むため「徒党」視を強調し、党人を摘発・資格停止する法的枠組み(錮)を動員したのである。
第一次(166年)の弾圧
桓帝末、名望家の言論が官場の腐敗を糾弾すると、宮中の宦官はこれを「党」として摘発した。李膺・杜密らの名士が象徴的標的となり、任官資格の停止・投獄・帰郷などの処分が科された。ここでの核心は、個人の違法行為ではなく、批判的言論と社会的影響力そのものを犯罪化した点であり、官僚制の自浄機能が制度的に封じられたことであった。
第二次(169年)と弾圧の深化
霊帝期には、宦官集団(いわゆる十常侍)が勢力を拡大し、クーデター未遂の混乱を経て党人への弾圧が再燃した。逮捕・拷問・連座の拡大により、京畿から州郡へ、さらに郷里の師友関係へと摘発の範囲は広がった。結果として、清議派は中央を離れつつも、郷挙里選に支えられた地方の名望基盤を強化し、官に頼らぬ社会的信用と相互扶助のネットワークを再編した。
解除(184年)と長期的影響
184年の大赦により党錮の禁は形式上解除されたが、朝廷の権威失墜は回復しなかった。黄巾の大乱で中央の統制が弛緩すると、地方では名士が募兵・防衛を主導し、郡国の秩序維持を担った。こうした自立的な指導は、後の群雄割拠や政権再編の人材・組織的基盤となり、魏・呉・蜀へ移行する政治社会の構図を準備したのである。
語義と法制上の位置づけ
「党」とは私的結束・徒党を指し、公共の「公論」とは対立概念であった。もっとも、当時の党人は儒教的規範を掲げる清議派であり、彼らの結束は公的倫理の回復を志向していた。「錮」は禁錮・資格停止を意味し、刑罰と身分秩序の双方にまたがる運用が可能で、官僚の社会的信用を奪う効果を狙った。これにより、政治的批判は「徒党」の名で不法化され、統治の正統性は短期的に維持されたが、長期には信任の崩壊を招いた。
社会・思想への波及
党錮の禁は、名士の「名節」を高め、公論の担い手としての士大夫像を強化した。任官資格を奪われた者も、郷里で学問・教化・救済を通じて影響力を維持し、士林の横断的ネットワークが形成された。国家の権威が相対化される一方、地方共同体と名士の協働が行政の代替を果たし、政治文化は中央集権的官僚制から、名望と人脈に支えられる秩序へと重心を移していった。
事件の構造的特徴
- 権力基盤の対立:宮廷内の宦官集団と、郷里に根差す名士層の構造的対立
- 司法と人事の一体化:資格停止(錮)により政治的批判を行政上の不適格に転化
- 世論の刑罰化:儒教的公論を「徒党」視して抑圧し、批判のチャンネルを遮断
- 地方化の促進:中央不信が郷里ネットワークの強化と自衛組織の形成を促す
主要人物と勢力
- 李膺:清議派の象徴的名士で、第一次弾圧の代表的人物
- 陳蕃:霊帝初期に政局浄化を試みたが、失脚後は弾圧の口実となった
- 竇武:外戚勢力の重鎮で、宮廷掌握を図るも失敗
- 十常侍:霊帝期に権勢をふるった宦官グループの総称
関連年表
- 166年:第一次の弾圧が発動、名士多数が摘発・錮
- 169年:第二次の弾圧で範囲が拡大、中央から地方へ波及
- 184年:大赦により解除されるが、社会的亀裂は残存
後世への影響
解除後も、清議派の倫理的権威と郷里基盤は政治的人材供給の母体であり続けた。中央の制度が機能不全に陥ると、名士は郡県の統治と軍事動員を担い、士人共同体は実務能力と道徳的正統性を兼ね備えた新たな支配エリートへと転化した。こうして生まれた「地方の公論」は、王朝再編の正統性を測る物差しとなり、以後の政権も名望家の支持を不可欠とする政治文化を引き継いだ。
学術上の評価
研究史では、党錮の禁を、単なる派閥抗争ではなく、情報・人事・司法を結合させた統治技術の転用例として捉える見解が有力である。制度が批判の受け皿を失うと、正統性は外形の維持と反比例して衰弱する。名士はその空白を埋める形で公共性を代行し、社会秩序は「官」から「士」へ、中央から地方へと重心を移動させた。これが後漢崩壊の社会的メカニズムであった。