什伍の制|戸籍と軍事を統合する相互連座制

什伍の制

什伍の制は、戦国期の秦が商鞅の変法において導入した相互監視・連帯責任の編戸組織である。編戸(戸籍)に基づき、民を五戸の「伍」と十戸の「什」に編成し、犯罪や逃亡・隠匿を互いに告発させ、報告怠慢には連座を加える仕組みであった。これは貴族的紐帯を解体し、君主と国家が直接に民を把握するための制度であり、徴税・徴兵・治安維持を同時に実効化する点に特色がある。商鞅は軍功爵制や度量衡の統一と併せ、この制度を中核として郡県制に耐える社会基盤を築き、秦の富国強兵と地域統合を推し進めたのである。

成立背景

秦は西方の辺境国家として出発したが、春秋から戦国への移行期に旧来の氏族的秩序が崩れ、官僚制と常備軍を軸とする中央集権化が求められた。商鞅の変法(紀元前4世紀中葉)はこの要請に応じ、土地私有と編戸斉民を前提に、民を国家の直轄資源として再編した。ここで什伍の制は、家ごとの居住・職掌・動静を面として管理し、情報と責任を横方向に結び、上からの命令を末端まで貫流させる合理的な枠組みとして機能したのである。

制度の構造

「伍」は五戸、「什」は十戸の単位で、相互に監臨・通報する義務を負った。戸長・什長などの小責任者が配置され、居住移転・婚姻・雇用・同居の出入りは登録対象となり、証符の携帯と手続が徹底された。要点は次のとおりである。

  • 相互監視と告発義務(不告発は同罪・減等の連座)で、犯罪や逃亡者の摘発を促進する。
  • 租税・徭役・兵役の割当を単位ごとに把握し、負担逃れを困難にする。
  • 許可なき移住・宿泊の取締により、人と物の流れを行政の視野に入れる。
  • 功績・違法の記録を単位別に蓄積し、賞罰の迅速化を図る。

運用と法令

法令は、犯人の検挙・通報に対し賞を与え、匿いや沈黙には累座を科す設計であった。これは刑罰の威嚇だけでなく、住民を治安維持の能動主体に転化する効果を持つ。秦の竹簡(睡虎地秦簡など)に見られる統治文書は、証符・関防・過所の制度と連動して什伍の制が運用された実態を示し、軍政・民政の両面で単位集団が情報と責任の結節点であったことを裏づける。

社会への影響

什伍の制は、血縁・地縁に依存した共同体的結束を国家の規律網に組み替えた。これにより、豪族・宗族の保護圏は後退し、個々の戸は法と命令に直接に接続された。通婚・居住・雇用の許認可や登録は流民化を抑止し、人口・生産・軍役の計量可能性を高めた。反面、監視と告発が日常化することで人間関係の萎縮や疑心を生み、社会の私的領域に対する公権的介入の強度を増す副作用も否めなかった。

軍事動員との連関

軍事面では、戸を基礎単位とする兵役動員・補給割当の精緻化に資した。伍・什はもともと軍隊の五人隊・十人隊の呼称とも通じ、常備軍の編成原理と民政の単位が相互に対応した。徴発の遅延・逃亡・装備不備は単位責任となるため、前線の充足率と後方の補給効率が安定し、軍功爵制による功過記録も単位的に管理されやすくなった。

他制度との結合

什伍の制は、度量衡の統一、道路・関市の整備、郡県制の展開と密接に結びついた。標準化された度量衡は生産と課税の把握を容易にし、関市・関防は人流・物流の節点として告発・証符制度を支えた。郡県制は中央の命令を県・郡から里・亭へと貫通させ、末端の伍・什にまで到達させる行政経路を提供したのである。

後代への影響と比較

秦滅亡後も、互いに監督し責任を分有させる発想は漢へ継承され、地域情勢に応じて運用が変容した。後世の保甲法・里甲法などの相互連帯制度とは系譜的に比較されるが、秦の什伍の制は法家思想のもとで刑名と実効的な行政手段を直結させた点で異質である。すなわち秩序維持の倫理よりも、可罰的・可計量的な統治技術として設計されていた。

史料と学説

『史記』商君列伝は変法の要点として「行什伍之法」を掲げ、告発奨励と連坐を説く。秦律・令の断簡、睡虎地出土文書は手続・証符・関防・拘禁の運用を明らかにし、行政現場での具体像を補う。学界では、伍・什を軍事編成と民政単位のどちらに比重を置くか、また告発奨励が社会規範の変容をどこまで促したかが論点であるが、国家の可視性を飛躍させた情報・責任の「面的配列」こそが制度の核心であるとの見解が有力である。

用語と誤解の回避

「什」は十、「伍」は五を指し、兵制用語としても用いられるため、軍隊の五人隊・十人隊と混同されやすい。秦の枠組みでは、軍事編制上の呼称と民政上の編戸単位が共鳴しつつも、後世の里甲法のような十進的・層状の組み合わせと一対一に対応するわけではない。また、道徳的自律を旨とする共同体規範というより、法と罰を媒介に人・物・情報の流れを統御する実務制度であった点を押さえるべきである。

意義

什伍の制は、国家が末端まで浸透する統治網を作り、徴税・徴兵・治安の三機能を一体化した。それは秦が短期に広域を制圧しうる運用力の源泉であり、同時に日常を法的強制の下に置く重圧も生んだ。功罪は相半ばするが、制度史的には編戸・証符・関防・賞罰のモジュールを緊密に結合し、情報と責任を量的に扱える近代的論理の先駆を体現した点において、古代東アジア統治のエポックを画したと言える。