中体西用
中体西用とは、近代中国の思想家が唱えた近代化方針であり、「中国(中華)の学問・道徳を体(本体)とし、西洋の学問・技術を用(実用)とする」という意味を持つスローガンである。清末の知識人は、アヘン戦争以降の列強の圧迫のなかで、儒教的秩序を維持しつつ、西洋の軍事・科学技術・産業を導入する道を模索し、その折衷的理念として中体西用を位置づけた。この方針は清朝末期の政治・軍事・教育・産業政策に大きな影響を与え、中国近代化の初期思想を代表する概念とされる。
用語の意味と基本構造
中体西用の「中体」とは、中国固有の学問・思想・制度を指し、とりわけ儒教の経典・礼教・皇帝専制体制などを含意する。「体」は根本原理や本質を意味し、ここでは中華文明の道徳的・政治的秩序を指している。他方、「西用」とは、西洋に由来する軍事技術・自然科学・工学・商業制度など、実際の運用や道具として役立つ知識・制度を意味する。すなわち中体西用は、「道徳や政治原理は中国伝統を守るが、科学技術や制度の一部は西洋から借用してよい」という二層構造を前提とする近代化構想であった。
歴史的背景―アヘン戦争と洋務運動
この理念が生まれた背景には、19世紀以降の対外危機がある。アヘン戦争によって清はイギリスに敗北し、不平等条約を締結して領土・関税・治外法権などで譲歩を強いられた。その後も太平天国の乱などの内乱が続き、伝統的な官僚機構だけでは国家存続さえ危うい状況に追い込まれた。この危機のなかで、曾国藩・李鴻章らは西洋の軍事技術や工業を導入して国家を立て直そうとし、その政治路線は後に洋務運動と総称される。中体西用は、まさに洋務派の改革を思想的に正当化する標語として機能した。
提唱者と思想形成
中体西用という表現を明確なスローガンとして定式化したのは、清末の大臣で地方官僚でもあった張之洞とされる。彼は著書『勧学篇』において、儒教経典に基づく道徳秩序を守りつつ、軍事・工業・交通・外交などの分野では西洋技術を積極的に学ぶべきだと主張した。張之洞に先立ち、曾国藩や李鴻章、さらに馮桂芬らも同様の考えを抱いており、彼らの議論が結晶して中体西用という簡潔な標語にまとめられたと理解されている。
教育制度への影響
中体西用は教育政策においても重要な指針となった。清末には、従来の科挙に依拠した経書偏重の教育だけでは近代戦争に対応できないとの反省から、新式学堂が設立された。これらの学校では、経書や歴史といった「中体」の科目に加え、算術・幾何・物理・外国語など「西用」に属する科目が導入される。カリキュラム構成は、中華の倫理と儒教道徳を核心としつつ、その外側に近代的専門知識を積み重ねる「同心円」型を想定しており、伝統と近代を折衷する清末教育改革の特徴を示している。
軍事・産業政策と中体西用
軍事・産業分野でも中体西用の理念は具体化された。洋務派は江南製造局や天津機器局などの兵工廠・造船所を設立し、西洋式大砲や軍艦の製造を進めた。また、電信・鉄道などのインフラ建設も推進され、国家の通信・輸送能力の向上が図られた。これらは西洋技術の導入という点で「西用」であるが、その管理は皇帝と官僚を頂点とする伝統的官僚制の枠内で行われ、「中体」を維持する形が取られた。このように、制度運営は旧来の政治秩序のもとで行い、その内部に西洋技術を組み込むという構図が、洋務期の近代化政策の大きな特徴であった。
思想史上の位置づけ
中体西用は、思想史的には保守的近代化論、あるいは折衷的近代化論として位置づけられる。全面的な西洋化を志向するのではなく、あくまで中国固有の文化と政治秩序を「本体」とし、その上に技術・制度を付け加えるという発想は、文明の優劣を単純に序列化せず、それぞれの文明の固有性を認めようとする態度とも結びつく。他方で、皇帝専制や科挙官僚制を前提とする限り、立憲主義や国民国家のような西洋政治思想の全面的導入は想定されておらず、その意味で中体西用は旧秩序の枠内にとどまる漸進的改革構想であったと評価される。
限界と批判―日清戦争後の転機
しかし、日清戦争(甲午戦争)で清が日本に敗北すると、中体西用路線の限界が露呈したと多くの知識人は考えた。日本は明治維新を経て、政治制度・法体系・軍制・教育制度などを包括的に改革し、近代的国民国家を形成していたのに対し、清では皇帝専制と科挙制度が温存され、軍事技術の導入も部分的にとどまっていた。この結果、洋務派の改革は「器物」レベルにとどまり、「制度」や「思想」レベルには十分踏み込めなかったと批判された。日清戦争後、康有為・梁啓超らの変法派は戊戌変法を通じて、より抜本的な立憲改革を試みるが、そこには中体西用を超えた新たな近代国家構想が見て取れる。
その後の評価と意義
中体西用は、その妥協性ゆえにしばしば「半端な近代化」として批判されてきたが、同時に急激な崩壊を避けつつ伝統と近代の調和を模索した試みとして再評価もなされている。清末の改革は最終的に辛亥革命へとつながり、帝政は崩壊したものの、儒教的価値観や中国的国家観の多くは共和国期以降もさまざまな形で残存した。こうした連続と断絶を理解するうえで、洋務運動や清朝末の改革思想とあわせて中体西用を位置づけることは、中国近代史・思想史研究において重要な意味を持つ。また、伝統文化を保持しつつ外来文明をどのように受容するかという問題は、同時代の明治維新や東アジア諸地域の近代化とも比較されるテーマであり、現在もなお議論の対象となっている。