三武一宗の法難
三武一宗の法難は、中国中世における四度の大規模な廃仏・仏教弾圧を総称する語である。対象は北魏の太武帝(446年)、北周の武帝(574–577年)、唐の武宗(841–846年、頂点は845年・「会昌の廃仏」)、後周の世宗(955年)である。いずれも寺院・仏像・経典の破却、僧尼の還俗、寺産・田地の没収を伴い、国家権力による宗教統制と財政・軍事動員の要請が密接に結びついた政策であった。四度の弾圧は断続的であるが、結果として中国仏教は制度・教団構造の再編を余儀なくされ、在家信仰や地域的ネットワーク、修行規範の整備などを通じて適応を深めたのである。
時代背景と用語
三武とは北魏太武帝・北周武帝・唐武宗、一宗とは後周世宗を指す。いずれの王朝も軍事的拡張や再編期にあり、豪族勢力の調整、財源確保、官僚制の整備が急務であった。寺院は寄進地系荘園や免税特権、僧尼の戸籍外化により、国家の課税・徴発網の外部へ資源を囲い込む装置となりえた。結果、仏教批判は思想上の是非だけでなく、統治技術の問題として浮上したのである。
北魏太武帝の廃仏(446年)
北魏では道教指導者寇謙之の影響と宰相崔浩の政治構想が合流し、太武帝が仏教を外来・妖妄と断じた。446年、全国的な寺院破却と僧尼の還俗が断行され、仏像・経巻の焼却が進んだ。北魏は鮮卑国家から漢地支配へ転換する最中にあり、軍事・財政の再編に資源を集中する意図が濃厚であった。その後、文成帝期に仏教が漸次復興し、曇曜五窟など石窟造営へつながっていく。
政策の要点
- 寺院資産・金銅仏の没収と再鋳
- 僧尼の戸籍復帰と労役・兵役動員
- 仏教批判のイデオロギー化(外来宗教・妖術論)
北周武帝の廃仏(574–577年)
北周武帝は574年に仏・道を同時に抑圧する「廃仏・廃道」を推進した。僧尼の多くが還俗し、寺院は官収された。均田制的秩序の再建と兵農一致の志向、豪族・寺院連合の影響力削減が狙いである。周は短命に終わるが、制度的衝撃は大きく、隋代における仏教政策の再編や国家祈願体系の整備に下地を与えた。
唐武宗の会昌の廃仏(841–846年)
唐武宗は道教偏重と財政再建を背景に、845年、全国寺観の大整理を実施した。登録外の寺院や蘭若は廃止され、僧尼の大規模還俗、寺産没収、度牒の制限が行われた。安史の乱後の疲弊と塩・茶専売の強化、藩鎮統制の必要性が重なり、寺院経済の縮減が選好されたのである。ただし翌年に即位した宣宗が復興策を取り、禅宗や浄土教の在家的展開が加速、石窟・版経・写経の文化も継続した。
後周世宗の廃仏(955年)
五代十国末、後周世宗は軍備拡充と財源動員のため、955年に仏像・鐘銭・銅器の回収と小規模寺院の統合を断行した。鋳造資源を武器や通貨に転用し、寺観の数を行政的に制御することで、宋による再統一に向けた軍事・財政基盤を整える狙いがあった。寺院側は在地の檀越層と関係を強化し、講経・布施ネットワークを通じた地域再建に舵を切った。
動機と論理
第一に財政・軍事的要請である。寺産没収と僧尼の還俗は、課税基盤の拡大・労役供給・金属資源の再循環に直結した。第二に統治秩序の再設計である。官僚制・均田制・戸籍制と競合する宗教的自律圏を抑制し、君主権の象徴秩序を再構築する意図が見える。第三に思想的正当化である。儒教的家族倫理や道教的護国論、外来宗教批判などが総合され、弾圧の名分が整えられた。
被害と復興
短期的には寺院破却・経巻散逸・塑像破損・僧伽解体が深刻であった。他方で、復興期には官許寺の制度化、度牒の管理、戒律重視、在家信仰の拡大、印刷術の普及による経典流通の活性化など、むしろ教団の規範化と社会的包摂が進んだ。禅宗は師資相承のネットワークで柔軟に生き延び、浄土教は念仏結社を通じて都市・農村へ浸透した。
史料と評価
同時代史料としては正史(「魏書」「周書」「旧唐書」「新唐書」「宋史」等)や碑刻・寺誌があり、後世の仏教側記録は被害の甚大さを強調する傾向がある。近代以降の研究は、経済史・制度史の視点から寺院の資源配分機能を解明し、国家による宗教政策の周期性と政権交代の力学を位置づけてきた。弾圧=衰微という単線的理解ではなく、抑圧を契機とする制度的「選別」と再配置に注目する見解が主流である。
東アジア史への波及
中国の廃仏は朝鮮半島や日本に直接の制度輸入をもたらしたわけではないが、国家と寺院の関係をめぐる議論に継続的影響を与えた。寺院の経済規模が拡大し、戸籍・兵役・課税と齟齬を生むとき、統治者はしばしば宗教統制へ傾くというモデルが示唆される。すなわち三武一宗は、宗教・経済・政治の交錯点における国家の合理性と限界を可視化する歴史的事例なのである。