三別抄の乱
三別抄の乱は、1270年から1273年にかけて高麗の特別軍事組織「三別抄」が、対元講和と開城還都を決めた王権に反発して挙兵し、江華島から珍島、そして耽羅(済州島)へと拠点を移しながら抵抗した事件である。最終的に高麗・元(モンゴル)連合軍に鎮圧され、沿海の海賊的ゲリラ戦は終息した。本乱は、東アジアの海陸秩序を再編した元朝の対外圧力の下で、高麗社会の軍事・政治構造が転換する節目となった。
背景―武臣政権・モンゴル侵攻・講和転換
13世紀前半、高麗はモンゴル軍の侵攻に対し、王権と政権中枢を江華島へ移し長期抗戦を続けた。武臣政権は私兵化した精鋭部隊を軸に島嶼防衛と出撃を両立させたが、度重なる動員と財政逼迫は社会に深刻な疲弊をもたらした。やがて政変を経て王権は対元講和へ傾き、1270年、王都を本土の開城へ戻す決定が下される。この「還都と講和」は、戦時動員を支柱としてきた軍事勢力にとって既得権の喪失を意味し、三別抄の離反を誘発した。
三別抄の構成と性格
- 中核は左右の別抄(史料上は「左右(夜)別抄」とも)と、降虜帰還兵を再編した神義軍(神義別抄)である。
- 江華島期には沿岸・島嶼の機動戦に適応し、哨戒・奇襲・輸送線防護を担った。私兵起源でありながら、王朝の弱体化した正規軍を補完する中央戦力として機能した。
- 海上運用・水城築造・舟筏運用に長じ、稲倉・港湾・関津を押さえることで兵站圧力を加える戦術を得意とした。
反乱の展開(1270–1273)
1270年、解散命令に反発した三別抄は江華島で挙兵し、宗室を擁して正統性を主張した。制海権の掌握を狙い、江華海峡を封鎖して本土と島嶼の往来を断ちながら沿岸税米の輸送・港津施設を襲撃し、高麗政府の財政・徴発網に打撃を与えた。圧力が強まると本拠を全羅道南西端の珍島へ移し、水城を拠点に海上ゲリラを継続したが、糧秣の逼迫と包囲で劣勢に陥る。
1271年、珍島が陥落すると勢力は耽羅(済州島)に転進し、溶岩台地と潟湖を活かした二重土城・泊地の整備で抗戦拠点化を図った。三別抄は南海岸の港市を断続的に襲い、連合軍の造船・集積を妨害したが、1273年、元・高麗の大規模上陸作戦により要塞が攻略され、指導層は斃れ、組織的抵抗は終息した。
主要人物と連合軍の動向
- 三別抄側の指導者として裴仲孫(ペ・チュンソン)・金通精(キム・トンジョン)らが知られる。彼らは島嶼の地勢と水軍運用を活かし、継戦能力を引き延ばした。
- 鎮圧側は高麗王権と元朝の共同作戦で、王権直臣の将とモンゴル将が連携して海陸両面から包囲を進めた。講和路線の確立は、王権の再編と対外関係の安定化を目的とした。
- 三別抄が日本側へ侵攻警告や協力を模索したと伝えられる点は、当時の海域ネットワークの緊張を示唆する。
意義―高麗秩序の再編と東アジア海域
本乱の鎮定により、王権は武臣政権期の軍事的自立性を整理し、元朝の冊封秩序に包摂された対外体制へ移行した。海上の抵抗勢力が排除されたことで、元朝は日本遠征や南海航路の兵站整理を進めやすくなり、東アジアの海域秩序は三別抄の乱後に一段と再編された。元朝の広域作戦については、海陸併進で周辺を圧迫した元の遠征活動が参照される。
同時期、元は西方ではルーシに宗主権を及ぼし(タタールのくびき)、草原西部ではキプチャク=ハン国が展開する一方、南海域ではビルマのパガン朝、大越の陳朝、ジャワのシンガサリ朝などとせめぎ合った。耽羅攻略は、航路・港市・造船資源の掌握という観点でも重要で、海域の通商・朝貢網(のちの東方貿易の基盤)に影響した。
史料と研究の視角
本乱の復元には、高麗史料のほか、元朝側の制度・遠征・外交を横断的に叙述したイル=ハン国の世界史編纂集史など、モンゴル帝国圏の同時代史料が有用である。海域の軍事遺構・土城跡・港湾遺物の考古学的検出も、沿岸ゲリラ戦の実像を補強する。軍事・社会史に加え、海域史・物流史・環境史を交差させることで、島嶼空間を足場にした抵抗運動と広域帝国の制海戦略の相互作用が立体的に浮かび上がる。
用語補足
「三別抄」は左右の別抄(史料によっては「左・右夜別抄」)と神義軍(神義別抄)から成る呼称である。「江華島」は当時の王権・政庁の疎開地、「珍島」「耽羅(済州島)」は海上防衛・機動戦に適した島嶼拠点であった。元朝の広域遠征像については前掲の元の遠征活動も参照されたい。