ロシア=トルコ戦争|黒海とバルカン巡る帝国抗争

ロシア=トルコ戦争

ロシア=トルコ戦争とは、近世末から19世紀にかけてロシア帝国とオスマン帝国とのあいだで繰り返し発生した一連の戦争である。主な戦場は黒海沿岸、コーカサス地方、ドナウ川流域、そしてバルカン半島であり、両帝国の国境線や勢力圏を大きく書き換える要因となった。これらの戦争は、ロシアの南下政策と「東方問題」、さらにはバルカン民族運動や列強外交と密接に結びつき、ヨーロッパ国際秩序の変容を理解するうえで重要な位置を占める。

ロシアとオスマン帝国の対立の背景

ロシアとオスマン帝国の対立は、黒海および地中海への通商路獲得をめぐる戦略的利害、ならびにキリスト教世界とイスラーム世界の境界という宗教的・文明的対立に根ざしていた。モスクワ大公国からロシア帝国へと成長したロシアは、バルト海と並んで黒海への出口を求める南下政策を推し進め、黒海北岸のステップ地帯やコーカサスを支配下に置こうとした。一方、オスマン帝国は黒海を「内海」として独占し、ボスポラス・ダーダネルス両海峡を掌握することで東西交通の要衝を支配していた。この構図のなかで、ロシアは正教徒保護を名目としてバルカン諸民族に影響力を拡大し、オスマン側はそれに対抗して西欧列強への接近を強めたため、ロシア=トルコ戦争は次第にヨーロッパ全体の政治問題となっていった。

17〜18世紀の戦争と黒海への進出

17世紀後半、コサック勢力をめぐる対立を背景にロシアとオスマンの軍事衝突が始まり、18世紀にはピョートル1世の南下政策とともに本格化した。ピョートルはアゾフ遠征で黒海北岸への足がかりを得ようとしたが、当初は限定的な成果にとどまった。その後、18世紀中葉にはエカチェリーナ2世の時代に1768〜1774年戦争が勃発し、クチュク・カイナルジャ条約によってロシアは黒海への通航権やクリミア・タタール人への保護権を獲得した。続く1787〜1792年戦争では、黒海南岸沿いの要塞都市をめぐる攻防の末、ロシアの黒海支配がさらに強化され、オスマン帝国の軍事的脆弱性が露呈した。こうしてロシア=トルコ戦争は、黒海の性格をオスマンの「内海」から列強の争奪の場へと変質させる役割を果たしたのである。

主なロシア=トルコ戦争の系譜

  1. 17世紀後半の戦争群(チギリン遠征など)―右岸ウクライナやコサック勢力をめぐる対立から生じ、黒海北岸の勢力図に影響を与えた。
  2. 1768〜1774年戦争―クチュク・カイナルジャ条約でロシアは黒海での航行権とクリミアへの影響力を獲得し、南下政策の転換点となった。
  3. 1787〜1792年戦争―エカチェリーナ2世による進出で黒海北岸の支配が進み、オスマン帝国の弱体化が決定的になった。
  4. 1806〜1812年戦争―ナポレオン戦争と並行して起こり、ロシアはベッサラビアを獲得してドナウ川下流域への足がかりを得た。
  5. 1828〜1829年戦争―ギリシア独立戦争と連動し、アドリアノープル条約でロシアはコーカサスと黒海沿岸での権益を拡大した。
  6. 1853〜1856年のクリミア戦争―形式上はロシアとオスマンの戦争であるが、実際には英仏がオスマン側に介入し、ヨーロッパ列強間の勢力均衡が前面に出た。
  7. 1877〜1878年戦争―バルカン諸民族の蜂起と結びつき、ロシアはスラヴ諸民族を支援してサン・ステファノ条約を結んだが、後にベルリン会議で修正された。

19世紀前半と東方問題

19世紀前半になると、ロシア=トルコ戦争は「東方問題」と呼ばれるヨーロッパ外交上の懸案の中心となった。衰退しつつあるオスマン帝国の領土をめぐり、ロシア、イギリス、フランス、オーストリアなど列強が介入し、バルカン半島や中東の帰属をめぐって複雑な駆け引きが展開された。ギリシア独立戦争では、ロシアが正教徒保護とスラヴ連帯を掲げて介入し、1828〜1829年の戦争で黒海沿岸とコーカサスに新たな権益を築いた。他方、イギリスやフランスは、ロシアが地中海への出口を掌握することが海上覇権を脅かすと見なし、その拡張に警戒心を強めた。その帰結がクリミア戦争であり、ここでロシアは敗北して黒海の中立化を受け入れ、一時的に南下政策が制約されることになった。

1877〜1878年戦争とバルカン民族運動

19世紀後半には、バルカン半島の民族運動とロシア=トルコ戦争が密接に結びつく。1870年代、ボスニアやブルガリアでの反乱に対するオスマンの弾圧は、列強世論の批判とロシア国内のスラヴ擁護感情を高めた。ロシアはパン=スラヴ主義の高まりを背景に1877年に開戦し、バルカン戦線とコーカサス戦線でオスマン軍を圧倒した。サン・ステファノ条約では、大ブルガリア公国の成立やセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立など、ロシアに好都合な条件が提示されたが、これに英・墺が強く反発した。その結果、ベルリン会議で条約は大幅に修正され、ブルガリアの縮小やボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー占領などが決められた。こうしてバルカン半島は、列強と民族国家が交錯する「バルカン問題」の温床となり、やがて第一次世界大戦への導火線となっていった。

ロシア=トルコ戦争の歴史的意義

ロシア=トルコ戦争は、単なる二国間戦争の連続ではなく、ヨーロッパ国際政治、帝国の興亡、民族の自立運動が交差する長期的プロセスであった。黒海・コーカサス・バルカンという三つの地域でロシアの勢力が拡大する一方、オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに弱体化し、その統治下にあった諸民族は自立を求めて行動するようになった。ロシアは正教徒保護とスラヴ連帯を掲げて影響力を強めたが、それは同時に英仏の警戒を呼び込み、たびたび列強間の緊張を高めたのである。こうした構図は、ロシア帝国の南下政策、バルカン諸国の国家形成、そして第一次世界大戦へと至る国際秩序の変化を理解するうえで不可欠であり、ロシア=トルコ戦争の歴史的意義は現代に至るまで大きな重みを持ち続けている。