リビア
北アフリカに位置するリビアは、西をチュニジアとアルジェリア、南をニジェールとチャド、東をエジプトとスーダンに接し、北は地中海に面する国家である。国土の大半をサハラ砂漠が占めるが、沿岸部には古代以来の都市が連なり、オアシスには遊牧と定住農耕が共存してきた。現在のリビアは、豊富な石油資源を背景に近現代史で重要な役割を果たしてきたが、同時に政治的不安定と内戦に悩まされてきた地域でもある。
地理・気候と民族構成
強い乾燥気候に属するリビアでは、降水は主に冬季に沿岸部へもたらされ、内陸は典型的な砂漠環境となる。トリポリ周辺の沿岸低地と、ベンガジに近い高原地帯は比較的農業に適し、オリーブや穀物、果樹栽培が行われてきた。一方、南部には広大な砂海と岩石砂漠が広がるが、地下水を利用したオアシスが点在し、キャラバン交易の拠点として機能してきた。こうした自然環境が、北と南の生活様式の違いを生み出している。
歴史的にリビアの住民は、ベルベル系とアラブ系を中心に構成されてきた。沿岸部には早くからアラビア語とイスラム教が浸透し、部族組織を基盤とした社会が形成された。内陸部にはトゥアレグやテブなどの遊牧民も居住し、サハラを横断する交易に従事した。今日のリビアはアラブ系住民が多数を占めるが、ベルベル系や黒人アフリカ系の人々も暮らしており、多層的な民族構成をもつアフリカ北縁の社会である。
古代リビアと地中海世界
古代のリビア沿岸には、ギリシア人がキュレネを中心とする植民市を建設し、続いてカルタゴやローマの勢力が及んだ。ローマ支配下では、沿岸部の都市は穀物やオリーブ油を産出する一大農業地帯として発展し、ローマ帝国の穀倉地帯の一部をなした。その後、西ローマ帝国の衰退にともない、ヴァンダル王国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が支配を争ったが、いずれも長期的な安定を維持することはできなかった。
7世紀にはイスラーム勢力が北アフリカに進出し、リビアもまたアラブ軍によって征服された。以後、アラビア語とイスラーム文化が広く浸透し、先住のベルベル系社会と融合しながら新たな文化圏が形成された。サハラ縦断交易の路線上に位置することで、金や奴隷、塩、馬などが行き交い、砂漠と海を結ぶ中継地としての役割を担ったのである。
オスマン帝国支配と地方政権
16世紀になると、地中海で勢力を拡大するオスマン帝国がリビア沿岸を支配下に組み入れた。トリポリを中心とする州(エヤレト)が設置され、オスマンから派遣された総督や地元の有力者が統治を行った。しばしばトリポリの総督家が半ば世襲的に権力を握り、宗主国から相対的な自立性を保ちながら、沿岸都市と内陸部の部族社会をつなぐ支配体制を維持した。
この時期のリビアは、海賊行為とコルセア活動の基地としても知られ、ヨーロッパ諸国の船舶が襲撃対象となった。近代になると、ヨーロッパ列強が北アフリカへの進出を強め、オスマン帝国の権威が弱まるなかで、外部からの干渉と内部の権力抗争が強まり、のちの植民地化への伏線が形づくられていった。
イタリア植民地支配
20世紀初頭、統一を達成したイタリアは、列強の一員として植民地獲得をめざし、1911年に伊土戦争を起こしてリビアを攻撃した。オスマン帝国の勢力が弱体化していたこともあり、沿岸部の主要都市はイタリア軍の手に落ち、正式に植民地として編入された。しかし、内陸部ではスンナ派イスラーム教団サヌーシー教団を中心に激しい抵抗が続き、植民地支配は長期にわたって不安定であった。
やがて第二次世界大戦が勃発すると、リビアは北アフリカ戦線の重要な戦場となった。ドイツとイタリアの軍隊と、イギリスを中心とする連合軍が砂漠地帯で激戦を展開し、補給路と港湾都市の支配をめぐって攻防を繰り返した。戦後、イタリアの敗北により植民地支配は終わり、国際連合の関与のもとで独立への過程が進むことになる。
独立と王国リビア
1951年、キレナイカ地方の宗教指導者イドリースを国王とするリビア王国が成立した。三つの歴史的地域であるトリポリタニア、キレナイカ、フェザーンが統合され、憲法上の立憲君主制国家として国際社会に承認された。独立当初は貧しい砂漠国家とみなされていたが、やがて豊富な石油埋蔵が確認され、産油国としての性格を強めていく。
冷戦期の国際情勢の中で、リビアは西側諸国と関係を保ちつつも、アラブ民族主義や反植民地主義を掲げる流れの影響も受けた。国内に駐留した英米軍基地をめぐる交渉、石油利権の配分、部族間のバランスなど、多くの課題を抱えた王政は、やがて国民の支持を失ってゆく。こうした不満の蓄積のなかで、軍部の若い将校たちが政権転覆を計画したのである。
カダフィ政権とジャマーヒリーヤ
1969年、カダフィ大尉ら自由将校団がクーデタを起こし、王政を打倒して共和制を樹立した。カダフィ政権は、アラブ民族主義と独自のイスラーム社会主義を掲げ、石油産業の国有化や再分配政策を通じて、国家収入を広く国民に分配する体制を構想した。のちに彼は自らの政治理念を「ジャマーヒリーヤ(大衆国家)」と称し、議会制や政党政治を否定しつつ、大衆会議による直接民主制が行われていると主張した。
一方で、カダフィ政権下のリビアは、反体制派への弾圧や国外でのテロ支援疑惑などにより、国際社会から厳しい批判を受けた。アフリカやアラブ世界での影響力拡大を目指す外交と、欧米諸国との対立は、経済制裁や軍事的緊張を生み出した。21世紀初頭には大量破壊兵器計画の放棄などを通じて関係改善も試みたが、国内政治の閉鎖性と長期独裁に対する不満は深く、体制の基盤は徐々に揺らいでいった。
2011年以降の内戦と政治混乱
2011年、チュニジアやエジプトから広がったアラブの春の波はリビアにも及び、大規模な反政府デモと武装蜂起が発生した。政権はこれを武力で鎮圧しようとし、多数の犠牲者が出たことから、国際社会は民間人保護を名目に国連決議を採択し、NATO軍による空爆が実施された。その結果、反政府勢力は優位に立ち、カダフィは同年に死亡し、長期独裁体制は崩壊した。
しかし、体制崩壊後のリビアでは、統一された国家機構を再建することができず、部族や地域、思想の異なる武装勢力が各地で実効支配を競い合う状況が続いた。国際的に承認された政府と対立勢力が並立し、外国勢力の関与も絡み合って、内戦状態は長期化した。石油施設の破壊や封鎖は経済に大きな打撃を与え、治安の悪化は難民・移民問題として周辺地域やヨーロッパにも影響を及ぼしている。
石油資源と経済構造
リビアは世界有数の石油埋蔵量をもつ産油国であり、その輸出収入は国家財政と外貨獲得の中心である。人口規模が比較的小さいことから、石油収入は一人当たりでは高水準となりうるが、政治的不安定や内戦により、その潜在力は十分に活かされていない。石油関連インフラの破壊や操業停止、投資の停滞は、長期にわたる復興の課題となっている。
- トリポリなど沿岸都市への人口集中と内陸の過疎
- 石油依存からの脱却と産業多角化の必要性
- 部族・地域間の利害調整と資源配分をめぐる政治問題
このように、豊富な資源を持ちながら、それを安定した発展につなげる制度や統治体制を構築できるかどうかが、今日のリビアが直面する最大の課題である。歴史的に培われた部族社会や地理的条件、冷戦とその後の国際秩序の変化など、さまざまな要因が絡み合いながら、この国の将来を規定していると言える。