モラヴィア王国
モラヴィア王国は、9世紀から10世紀初頭に中欧に成立したスラヴ系の大国であり、一般に「大モラヴィア(Great Moravia)」とも呼ばれる。モイミール1世の下でニトラ地方を統合して台頭し、ラスチスラフ・スヴァトプルク1世の時代に最盛期を迎えた。東フランク王国との抗争、ビザンツ帝国からのキュリロスとメトディオスの宣教、スラヴ語典礼の採用など、政治・宗教・文化の各面で中世中欧に決定的な影響を与え、のちのボヘミアやスロヴァキア、ハンガリーの形成史にも深く関わった国家である。
成立と領域の拡大
起源は9世紀前半、モイミール1世がモラヴィア系諸勢力を糾合し、833年頃にニトラ(プリビナの支配地)を支配下に組み込んだことに始まる。ドナウ中流域からモラヴァ川流域にかけての拠点(ミクルチツェ、スタレ・メスト、ヴェレフラドなど)に大規模な土塁と聖堂が築かれ、周辺のボヘミア、パンノニア、シレジア、ヴィスワ地方へ影響を広げた。こうして形成された政治体は、地域諸公(クニャージ)を束ねる上位権力としての性格を備え、中欧におけるスラヴ世界の中心の一つとなった。
東フランクとの関係と国制
同時代の最大の外圧は東フランク王国であった。ラスチスラフ(在位846–870)はルートヴィヒ2世(ドイツ人王)に対して自立を志向し、国境防衛と城塞網の強化を進めた。内政面では諸公の合議と君主権が併存する構造で、家産領と軍役・貢納の関係が政治秩序の基礎をなした。対外的には時に講和・臣従を装いながらも、東フランクの司教権・封建的干渉を抑えるため宗教政策をてこに独自路線を模索した点が特色である。
キュリロスとメトディオスの布教
863年、ラスチスラフの要請でビザンツの兄弟宣教師キュリロス(コンスタンティノス)とメトディオスが派遣され、スラヴ語典礼の整備が進んだ。彼らはグラゴル文字を用いて聖書・典礼文の翻訳を行い、やがてローマ教皇も一定の容認を与えた(ローマでの承認と叙任)。これは東フランクのドイツ系聖職者に依存しない教会体制を志向する政治判断であり、スラヴ語礼拝は民衆統合と識字文化の発展を促した。メトディオス没後、反対派の攻勢により弟子たちが追放される局面も生じたが、スラヴ語文献・聖職養成の基盤は中欧・東欧に広く波及した。
スヴァトプルク1世の最盛期
スヴァトプルク1世(在位871–894)の治世、国家は最大領域に達した。ボヘミアやヴィスワ川流域にまで影響力を及ぼし、パンノニアでは東フランク勢力と角逐した。外交では東フランク王アルヌルフとの抗争と和睦を繰り返し、内政では有力諸公を配下に再編して軍事動員力を高めた。経済面では農耕・牧畜に加え、鉄器・装身具・交易の集積が考古学的に確認され、城塞聚落は宗教・行政・生産の複合拠点として機能した。
衰退とハンガリー(マジャル)人の進出
894年のスヴァトプルク1世の死後、後継争いと東フランクの介入が続き、国家の統合力は低下した。9世紀末から10世紀初頭にかけて、草原から進出したマジャル人(ハンガリー人)がドナウ盆地へ侵入し、902–906年頃の戦いでモラヴィア側は決定的打撃を受けた。これにより政治体は崩壊し、チェコ地域はプシェミスル家の下でボヘミア公国へ、スロヴァキア地域はハンガリー王国の形成過程に組み込まれていった。もっとも、宗教制度・集落構造・用水管理などの遺産は存続し、地域社会の中に長く影を落とした。
考古学的景観と都城
ミクルチツェやスタレ・メストの大規模拠点からは、教会跡、木骨土塁、防御壕、鍛冶・鋳造の痕跡が検出されており、王(大公)権と教会・職人層の結節点であったことがうかがえる。墳墓の副葬品はエリート層の階層化と対外交易を示し、銀装飾・武具は東フランクやバルト・黒海方面とのネットワークを物語る。地名学・河川交通の分析は、川筋に沿う拠点の分布と軍事・徴税の回廊を示す。
文字・言語と文化的意義
グラゴル文字による古スラヴ語文献の整備は、その後のキリル文字(Cyrillic)の普及への橋渡しとなり、教会スラヴ語は東方スラヴ・南スラヴ世界の宗教文化の共通基盤を形成した。典礼の在地語化は、権力の正統性を普遍教会の枠内で再解釈する試みであり、ラテン語・ギリシア語との接触が翻訳・注解の技法を育て、中世中欧の学知形成を刺激した。
主要君主と年代
- モイミール1世:9世紀前半、統合の創始者として台頭。
- ラスチスラフ(ラスティスラフ):846–870、自立路線とスラヴ語典礼の導入を主導。
- スヴァトプルク1世:871–894、最大領域を築く。
- モイミール2世:9世紀末–10世紀初頭、外圧と内紛の中で衰退局面を迎える。
史料と研究史
同時代のフランク年代記や教皇文書、ビザンツ資料、考古学出土品が主要史料である。政治的中核地の比定をめぐっては、チェコ・スロヴァキア・オーストリア・ハンガリーの学界で議論が続き、拠点群の多中心性、季節移動を含む軍事動員、周縁支配の柔構造などが重視されるようになった。宗教史では、ローマ=ラテン教会とビザンツ=ギリシア教会の相互承認・競合の動態の中で、スラヴ語典礼が果たした媒介的役割があらためて評価されている。