マンスール
マンスール(Abu Ja'far al-Mansur, 在位754–775)は、アッバース朝第二代のカリフであり、政治・財政・軍事の基盤を整えた建国期の中核的人物である。兄アブー=アルアッバースの後を継ぎ、反乱の鎮圧と官僚制の整備を通じて新王朝の権威を確立した。特に762年に円形都市バグダード(正式名はMadinat al-Salam)の建設を開始し、行政・交易・知の結節点として発展させた点は特筆される。彼はイラン系官僚の技法やディーワーン(官庁)を活用し、地租ハラージュと人頭税ジズヤを再編して歳入の安定化を図った。また、交通と通信の要となるバリード(駅逓・通信制度)を再整備し、地方統治の監督力を高めた。思想・学術面では翻訳事業の萌芽を支援し、天文学や数学などの受容の土台を築いた一方、宗教的権威との緊張も抱え、法学者への抑圧をめぐる評価は分かれる。総じてマンスールは、征服の王朝を制度の王朝へと転換させた「国家建設者」と位置づけられる。
出自と即位
マンスールはアッバース家出身で、ウマイヤ朝を打倒した革命の余勢が残る時期に、兄アブー=アルアッバース(アッ=サッファーハ)の死を受けて754年に即位した。拠点は当初イラク方面で、クーファの宗教・部族勢力とホラーサーン軍の均衡をとりつつ、王朝の主柱である東方軍事力を手中に収めた。彼は即位直後から、混在する部族的忠誠と地方有力者の自立化傾向を抑え、中央集権的な枠組みへと収斂させることを最優先課題とした。
統治体制の整備
彼の統治の核心は、ディーワーン(財政・軍政・文書)の再編である。徴税の台帳と監査を厳格化し、財政の「見える化」を進めた。イラン系の行政技法を取り入れ、書記官僚(カーティブ)を育成して決裁と記録の一体化を図った。貨幣の鋳造規格を安定させ、ディーナールとディルハムの流通を管理することで市場の信認を強化した。結果として、王朝は地方からの定期的な上納と軍費の計画的配分が可能となった。
バグダードの建設
762年、マンスールはチグリス川近くに円形都市を計画し、宮城と官庁を中心に四門と放射状街路を配した。戦略上はフロンティアへの機動展開を容易にし、経済面では東西交易の中継拠点として機能した。用水路・倉庫・市場を計画的に配置することで、行政・軍事・商業の三機能を一体化させた構造は後代のイスラーム都市計画の範となった。バグダードはやがて学術の都としても名を高め、翻訳・編纂の基盤が整えられていく。
反乱鎮圧と権力の確立
マンスールは王朝権威に挑む勢力を断固として制した。革命を主導したホラーサーン系軍事指導者の影響力を削ぎ、またアリー家支持派(アラーウィー派)の大規模蜂起(メディナ・バスラ周辺)を鎮圧した。加えてハワーリジュ派の動きにも素早く対処し、国内治安を回復した。これらの厳格な措置は恐怖政治との批判も招いたが、短期間に秩序を回復し、徴税と兵站の中枢を守る効果をもたらした。
財政・税制と土地支配
財政では地租ハラージュの再編が要であった。耕地台帳の見直し、収穫量に応じた実施、徴収ルートの多重化防止により、徴税の透明性を高めた。ジズヤについても身分・宗教別の負担を整理し、改宗や社会移動による税基盤の変動を制度的に扱えるようにした。結果、国庫は常備軍の俸給と要塞整備、道路・橋梁の維持に安定財源を確保した。
交通・通信と地方統治
駅逓・通信制度バリードは、報告・密偵・公用輸送を兼ねる王朝神経網である。マンスールはその定期便・交替馬・宿営地の管理を厳格化し、地方総督(ワーリー)や徴税官の監督を実効化した。これにより地方の専横や遅滞報告を抑止し、叛乱の兆候を早期に把握する仕組みが成立した。街道・関所の整備は交易の安全にも資した。
学術・宗教政策
彼の治世は翻訳運動の準備段階として評価される。とりわけ天文学・数学の受容が進み、観測と計算の基礎が王都に集積した。一方で宗教権威との距離は一定に保たれ、王権に従わぬ法学者への圧力は批判を招いた。とはいえ、法(フィクフ)と統治の役割分担が議論され、後代の制度的展開へと接続する重要な過程であった。
対外関係と軍事
外征は抑制と実利を旨とし、辺境での季節的出兵と講和の併用で国境線の安定を図った。要塞線の維持、兵站の平時訓練、傭兵と常備兵の比率調整など、持続可能な軍事運用に重点が置かれた。これにより王都と穀倉地帯は戦争経済からの独立度を高め、財政の健全性が保たれた。
最晩年と継承
マンスールは巡礼途上で没したと伝えられ、王位は子のアル=マフディーへと移った。王朝は以後も行政・財政・学術の三位一体的発展を続け、アッバース朝は長期王朝としての形を整えていく。即位から没年に至るまでの彼の施策は、統治の即効性と制度の持続性を両立させた稀有な事例と評価できる。
名称・語義・表記
「アル=マンスール」は「神に援けられし者」を意味する尊称である。日本語ではマンスール、アラビア語ではal-Mansur、ラテン転写ではal-Mansūrと表記される。史料上はアブー・ジャアファルのクンヤを併記することが多く、王朝文書・年代記では称号と実名が併用される。