マガリャンイス
マガリャンイスは、16世紀初頭の大航海時代に活躍したポルトガル人の航海者であり、人類史上初の世界周航を成し遂げた艦隊を指揮した人物である。彼はポルトガル王室から離反してスペイン王室に仕え、西回りでモルッカ諸島へ至る航路を切り開こうとした。その遠征は彼自身の戦死によって中断されたが、部下たちが航海を完遂したことで、地球が球体であることと海洋によって一つに結ばれていることを具体的に示す歴史的成果を残したのである。
生涯とポルトガルでの経験
マガリャンイスは15世紀末のポルトガル北部の騎士身分の家に生まれたとされ、幼少期から王宮に仕えることで航海や軍事に関する教育を受けた。若き日にインド航路が開かれたのちのポルトガル艦隊に参加し、インド洋やアフリカ沿岸での戦闘・交易に従事したことは、遠洋航海の実務や、香辛料貿易の利潤構造を知る貴重な経験となった。この段階で彼は、東回り航路だけでなく、西回りによる到達の可能性についても関心を抱くようになったとされる。
スペイン王室への仕官
しかし、ポルトガル王室との間で恩賞や昇進をめぐる不満が高まると、マガリャンイスは祖国を離れ、カスティリャ王国の都セビリャに移った。ここで彼は、スペイン王カルロス1世に対し、西回りで香料諸島に至ればトルデシリャス条約の範囲外としてスペイン側の権利を主張できると説き、王の支援を取り付けることに成功した。この過程で、スペインの官僚や商人たちは、ポルトガル出身の航海者が自国にもたらす利益の大きさを理解し、遠征計画は国家事業として位置付けられていったのである。
世界周航遠征の計画と出発
マガリャンイスの構想は、アフリカを回らずに大西洋から西へと向かい、南アメリカ大陸の南端に未知の海峡を見いだし、そこから西太平洋を横断して香料諸島に至るというものであった。1519年、セビリャ近郊から5隻の艦隊が出航し、サンルカル・デ・バラメーダで最終補給を行って大西洋に乗り出した。艦隊には様々な国籍の船員が乗り込んでおり、遠征は単なる王室事業にとどまらず、ヨーロッパ諸地域の人々を巻き込んだ国際的な冒険となった。
航海の経過と困難
- 南大西洋に入った艦隊は、ブラジル沿岸を南下しながら適地を探索し、南アメリカ大陸の沿岸線を詳しく調査した。
- やがてマガリャンイスは大陸南端に複雑な入り江と海峡を見いだし、困難な測量と偵察の末、この海峡が太平洋へ通じることを確認した。この海峡はのちにマゼラン海峡と呼ばれるようになる。
- 太平洋横断は予想を超える長期航海となり、食糧不足や壊血病が多くの犠牲者を出したが、それでも艦隊は西進を続けてフィリピン諸島へ到達した。
フィリピン到達と戦死
フィリピンでは、マガリャンイスは現地首長との同盟を通じてスペイン王権への服属や改宗を進めようとした。しかし、マクタン島で敵対勢力との戦闘に自ら先頭に立って参加した際、彼は戦闘のなかで致命傷を負い戦死した。したがって、彼自身は世界一周を成し遂げていない。それでも残存船団は指揮官を失いながらも航海を続け、香料諸島を経てインド洋・喜望峰を回り、スペインへの帰還に成功したのである。
業績と歴史的意義
マガリャンイスの遠征は、地図上の仮説であった太平洋の広さや大陸配置を実測により明らかにし、地球規模の海洋ネットワーク形成に決定的な一歩を刻んだ。世界周航の完遂は、地球が一つの連続した空間であることを実証し、ヨーロッパ人の世界観や国際貿易の構造を大きく変化させた。また、彼の名はスペイン語読みの「マゼラン」の形で知られる一方、ポルトガル語に近い「マガリャンイス」という表記は、彼が本来ポルトガル王国の伝統を背負った航海者であったことを想起させるものであり、大航海時代における国家間競争と個人の選択の複雑な関係を象徴している。