ホームステッド法
ホームステッド法は、リンカン大統領の下で制定されたアメリカ合衆国の土地法で、1862年に成立し60年以上にわたって施行された法律である。西部の公有地を無償もしくは低価格で自営農民に与えることで、西部開拓を促進しつつ、小規模農民を基盤とする共和国の理想を実現しようとした政策であり、南北戦争期の軍事・政治戦略とも密接に結びついていた。この法律によって数百万人の入植者が新たな農地を手に入れた一方で、先住民社会の破壊や土地投機の横行といった負の側面も生じ、今日ではその功罪の両面から論じられている。
制定の背景
ホームステッド法成立の背景には、19世紀前半から続く西部領土の拡大と、その利用をめぐる政治対立があった。とくに、奴隷制を西部に拡張しようとする南部の大農園勢力と、「自由土地・自由労働」を掲げる北部の自営農民層との対立は深刻であり、カンザスネブラスカ法や逃亡奴隷法、ドレッド=スコット判決などを通じて、国内は分裂へと向かった。こうした状況のなかで、北部の小農と職人層を支持基盤とする共和党は、西部公有地を低廉な条件で配分する「ホームステッド」政策を一貫して主張し、1860年大統領選で当選したリンカンの公約の1つとなった。
法律の内容
ホームステッド法は、一定の条件を満たす個人に最大160エーカーの公有地を提供する制度を定めていた。対象者は原則として21歳以上の成人、または世帯主であり、合衆国市民、もしくは将来市民になる意思を表明した移民であった。申請者は所定の登録料を支払い、裁判所や土地局で申請手続きを行う必要があった。
- 最大160エーカーの公有地を選択して占有する権利
- 5年以上の継続的な居住と耕作の義務
- 居住・耕作義務を果たした後、所有権認定のための最終申請
- 居住期間を短縮し、一定額(1エーカーあたり1.25ドル)を支払って買い取る「買い上げ」も一部で認められた
このようにホームステッド法は、土地に対する労働と定住を条件として所有権を認める仕組みであり、単なる投機や不在地主を抑制しようとする点に特徴があった。
西部開拓と社会への影響
ホームステッド法の施行によって、ミシシッピ川以西の大平原地帯には多くの自営農民が定住し、新たな農村社会が形成された。鉄道会社の路線延伸と結びつき、農産物の商業化や輸送網の発達が進んだ結果、西部は短期間で大穀倉地帯へと変貌した。また、ヨーロッパからの移民もこの制度を利用して農地を取得し、多民族的な農村コミュニティが展開した。こうした動きは、奴隷制に依存する南部プランテーションとは異なる社会構造を作り出し、南北間の経済構造の違いをさらに鮮明にした。
南北戦争・奴隷制問題との関連
ホームステッド法は、南北戦争期の政治状況と切り離して理解することはできない。南部諸州が連邦から離脱してアメリカ連合国を樹立し、ジェファソン=デヴィス政権がリッチモンドに成立したことで、連邦議会から南部の議員が姿を消し、長年南部勢力によって阻止されてきた「自由農地」政策が一気に実現に向かったのである。戦前にはアンクル=トムの小屋やストゥの著作、地下鉄道運動やジョン=ブラウンの蜂起など、奴隷制批判と逃亡奴隷支援の動きが高まっていたが、戦時期には奴隷制廃止と並んで、自営農民を基盤とする社会構想としてホームステッド法が位置づけられたといえる。
先住民社会と土地投機の問題
ホームステッド法が西部開拓を促進したことは事実であるが、その背後では先住民の土地からの追放と保留地政策が進行していた。条約や軍事行動によって先住民が居住していた広大な土地が「公有地」とされ、それが入植者に分配されたのであり、先住民から見れば生活基盤と文化空間の喪失を意味した。また、法律は投機を抑制することを目的としていたものの、実際には名義貸しや企業による制度悪用も横行し、鉄道会社や大農場経営者が広大な土地を支配する結果を生んだ地域も少なくなかった。この点でホームステッド法は、小農の保護という理念と現実の格差を象徴する制度としても論じられている。
その後の展開と歴史的意義
ホームステッド法にもとづく土地無償交付は20世紀に入っても続き、膨大な面積の土地が個々の農民や家族に渡った。冷涼で耕作が困難な地域や、後発の申請者には不利な条件も多く、すべての入植者が成功したわけではないが、アメリカ社会における「自営農民」「フロンティア精神」といったイメージの形成に大きく寄与したことは疑いない。今日、ホームステッド法は、土地改革や農地政策の先駆的事例として、また環境問題や先住民の権利回復をめぐる議論の文脈でも再検討されており、19世紀アメリカ史と世界の土地制度史を理解するうえで欠かすことのできない制度と位置づけられている。