ハワーリジュ派
ハワーリジュ派は、7世紀後半のイスラーム共同体に生じた急進的宗派で、第一次内乱(656–661)期にアリーとムアーウィヤの仲裁(タフキーム)を拒否して共同体から「出た」人々を起源とする(語源は「出る」を意味するアラビア語動詞に由来)。彼らはカリフ位の血統的特権を退け、敬虔と正義を条件に、誰もが指導者になり得ると主張した。また大罪人(カバイール)を不信仰者と看做す強いタクフィール観、コーラン文言への厳格な字義遵守、共同体の純化を目指す急進的倫理が特徴である。後世にはマグリブやオマーンに温和化したイバード派が残った一方、過激派は弾圧と内紛で縮小した。
成立と語源
出発点はスィッフィーンの戦い(657)後の仲裁問題である。アリー軍の一部は「裁きは神にのみあり」として人間的仲裁を否定し、アリーから離反した。彼らは「離脱者」を意味する呼称で呼ばれるようになり、後に宗派としての輪郭を得た。部族連帯よりも信仰と行為の純粋さを重視する姿勢は、当時のアラビア半島およびイラクの部族社会に対して強い挑戦であった。
思想と教義
- 指導原理:指導者(イマーム)は出自でなく敬虔・正義によって選ばれるべきで、必要なら罷免・討伐も正当とする。
- 信仰と行為:信仰は行為と不可分であり、大罪は不信仰と同視され得ると考えた。
- 法と道徳:コーランの文言に厳格で、共同体の純化のため武力行使を辞さない派もあった。
- 共同体観:真の信徒集団を狭く定義し、妥協を拒む排他性がしばしば強調された。
歴史的展開
第一次内乱とスィッフィーン
ムアーウィヤとの抗争は長期化し、仲裁受諾をめぐってアリー陣営内部で亀裂が生じた。離脱者たちは自律的集団として武装し、クーファ周辺やバスラ方面で勢力を形成した。
ナフラーワーンの戦いとアリー暗殺
658年のナフラーワーンでアリー軍は急進派を撃破したが、対立は収束せず、最終的にアリーはイbn・ムルジャムによって暗殺されたと伝えられる。この事件はイスラーム政治史における宗派的暴力の象徴として記憶される。
ウマイヤ朝・アッバース朝下の活動
ウマイヤ朝期にはイラク、アラビア半島、ホラーサーンなどで反乱を繰り返し、交易路や地方都市を脅かした。アッバース朝成立後も局地的蜂起は続いたが、軍事的弾圧と内部分裂により徐々に解体し、温和な潮流が地域社会に定着していく。
派生諸派
アザリカ
最も過激とされる一派で、敵対者のみならず中立者にも厳罰主義を適用した。共同体の境界を極端に狭く画し、急進的タクフィールを実践したため、支配政権と在地社会双方から強い反発を招いた。
ナジュダ
アラビア半島中部を拠点に成立した一派で、アザリカよりは柔軟とされるが、政治的純化を求める姿勢は共有した。部族間の利害と宗派理念の折衝に苦しみ、分裂や離合集散を繰り返した。
イバード派
温和化した潮流で、過激なタクフィールを退け、共同体内での共存を重視する。オマーンや北アフリカで学問的伝統と法学を整え、地域社会の宗教的基盤として長期に存続した。今日ではイバード派が歴史的ハワーリジュの穏健的継承者として認識されることが多い。
政治思想への影響
ハワーリジュ派は、指導者選出を「徳」によって正当化し、権力の監督と罷免を是とする論理を早期に示した点で、イスラーム政治思想史上の重要な参照点である。血統や部族的権威に依らないイマーム論は、共同体の規範と統治正当性をめぐる議論に長期的影響を与えた。
社会・文化的側面
厳格な規範意識は衣食住や婚姻、取引慣行にも及び、共同体の境界管理を伴った。説教学・詩句・書簡は簡明直截で、倫理的訴えを強調する傾向が見られる。軍事的行動と移動性は、オアシス都市や遊牧圏のネットワークを通じて拡散を助けた。
言葉の後世的用法
後世の著述や説教では、体制に反抗する急進派を指すレッテルとして「ハワーリジュ」が用いられることがあった。しかし歴史上の多様な諸派と現代の運動を同一視することは、史料理解を誤らせる可能性がある。時代・地域・文脈に即した比較が必要である。
史料と研究
一次史料としては年代記、法学文献、神学的論争文書などがあり、敵対者による叙述も多いため、記述の偏向を踏まえた批判的読解が不可欠である。考古学・碑文・地理書の対照により、移動経路や拠点都市の実像が補われ、イバード派伝統の文献学は内部からの視座を提供する。
歴史的意義
ハワーリジュ派は、共同体の規範と政治権威の関係を問う急進的応答として出現し、イスラーム世界の政治文化に持続的緊張をもたらした。過激と穏健の分岐は、宗教的純化の理想と社会統合の要請の相克を映し出す。彼らの経験は、信仰共同体の境界設定、正統性、暴力と倫理の関係を考えるうえで、現在もなお学術的射程をもつ。