ナポリ王国
ナポリ王国は中世末期から近代初頭にかけてイタリア南部本土を支配した王国である。起源はノルマンによるシチリア王国の建設(1130)にさかのぼるが、1282年のシチリアの晩祷後、島(シチリア)と本土が分離し、本土側がナポリ王国として定着した。以後、アンジュー家の支配、アラゴン=スペインの副王統治、ハプスブルク時代、そしてブルボン朝を経て、1816年に二シチリア王国へ統合され、1861年のイタリア統一で消滅した。都ナポリは地中海有数の大都市として人口・文化・経済の中心であり、王国の政治と学芸の舞台であり続けた。
成立と分離の経緯
ノルマンのオートヴィル家がシチリア王国を樹立すると、首都はパレルモに置かれた。やがて教皇の支持を受けたアンジュー家が介入し、カール1世が本土と島を掌握したが、1282年のシチリアの晩祷で島部がアラゴンに離反したため、講和(1302年のカルタベッロッタの和約)によって本土はナポリ王国として確立した。本土は教皇との結びつきが強く、君主の正統性はしばしばローマ教皇の承認に依拠し、王国はイタリア政治における重要な調整点となった。
アンジュー朝の支配
アンジュー朝はフランス系貴族を伴い行政・司法を整備し、ナポリを王権の拠点に再編した。海上交易の活発化に合わせて関税・港湾収入を重視し、貨幣経済と金融が浸透した。他方で封建領主の力はなお強く、地方ではバロン層が広大な荘園を支配した。王権の相続や対外戦争はたびたび内訌を誘発し、王国はフランス・アラゴン・教皇の勢力均衡の渦中に置かれることになった。この時期にナポリの都市景観は拡張し、城塞マスキオ・アンジョイーノ(新城)が象徴的建造物となった。
アラゴンとスペイン・ハプスブルクの副王政
1442年、アラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王国を征服すると、のちにスペイン王権のもとで本土は副王(Viceroy)による統治に移行した(1504以降)。副王政は枢密的な「コッレガーメ」や財務・司法機関を通じて統治を画一化し、地中海交易・穀物流通・関税を国家財政の柱とした。スペイン・ハプスブルクの対外戦争(Italian Wars)やオスマン海軍・私掠の脅威は防衛負担を高め、重税は都市と農村に緊張を生んだ。とはいえナポリは学芸・音楽・法学の中心として繁栄を続け、人口は欧州屈指の規模に達した。
マザニエッロの蜂起(1647)
重税と物価高騰は社会不安を生み、1647年には魚売りマザニエッロに率いられた都市蜂起が勃発した。蜂起は一時的に自治の回復を唱えたが、貴族層・王権との妥協と分断によって終息し、財政圧力と社会矛盾は構造的に残存した。この事件は副王政下の都市政治と民衆エネルギーの相克を象徴する出来事であった。
疫病と災害
17世紀のペスト(1656)やヴェスヴィオ山噴火(1631)は人口・経済に深刻な打撃を与えた。とりわけペストは労働力を奪い、税収・軍備にも影響したが、港湾都市としての復元力は強く、交易の回復とともに市街の再建が進んだ。
ブルボン朝の改革と文化
スペイン継承戦争後、オーストリア支配を経て、1734年にカロルス(後のスペイン王カルロス3世)がナポリ王国とシチリアを制してブルボン朝を開いた。彼は王宮カゼルタの建設、サン・カルロ劇場(1737)の整備、ヘルクラネウム・ポンペイの発掘開始など文化政策を推進し、行政改革や関税・産業育成にも取り組んだ。絹織物や陶磁など特産の育成は国家主導の「啓蒙専制」的性格を帯び、学術面でも学会・印刷文化が発展した。
ナポレオン期と二シチリア王国への転換
1806年、ジョゼフ・ボナパルト、ついでジョアシャン・ミュラが王位に就き、法典の導入や行政区画の再編が進められた。1815年のウィーン体制でブルボン家が復位すると、1816年に本土と島が正式に統一され二シチリア王国が成立し、ナポリ王国の名称は制度上終焉した。19世紀半ば、ガリバルディの遠征とサルデーニャ王国の併合政策により、1861年のイタリア王国成立で旧領は統一国家に編入された。
社会・経済構造
- 大土地所有とラティフンディア:地方ではバロン的寡頭支配が残存し、農村の自立を阻害した。
- 港湾・商業:ナポリ港は穀物・羊毛・油脂・ワインなどの再輸出拠点で、関税収入は国家財政の柱であった。
- 貨幣・金融:ドゥカートやカリーノなどの貨幣が流通し、年金借入や関税担保など公的金融が発達した。
都市と学知
ナポリ大学(1224創設)は欧州最古級の公設大学として法学・医学・哲学の中心であり続け、18世紀にはジャンバッティスタ・ヴィーコらが活躍した。市内にはカステル・ヌオーヴォやカステル・デッローヴォなどの要塞、王宮・修道院群が連なり、音楽院と劇場はオペラ文化を育んだ。これら都市装置はナポリ王国の権威と都市の活力を可視化する装置であった。
対外関係とイタリア政治
ナポリ王国は教皇・フランス・アラゴン(のちのSpain)・Habsburgの力学の中で均衡外交を強いられ、Italian Warsや対オスマン海域防衛に巻き込まれた。海上では私掠・海賊対策が不可欠で、沿岸要塞と艦隊維持が常態化した。他方、ナポリは南イタリアの文化的磁場として作家・音楽家・法学者を吸引し、政治的従属と都市的自律という二面性を併せ持つ国家であり続けたのである。