チャンドラグプタ
チャンドラグプタは古代インドにおける最初期の大規模国家マウリヤ朝の創始者である。前4世紀末、ガンジス中流域の強力なナンダ朝を打倒し、都パータリプトラを中心に北インド一帯を統合した。ギリシア系史料のMegasthenesや政治書『Arthashastra』(伝カウティリヤ)によって、その集権的統治と軍政・財政の整備が伝えられる。また名称上の混同を避けるため、後世のグプタ朝の君主チャンドラグプタ1世・2世(ヴィクラマーディティヤ)とは区別されるべき存在である。
生涯と即位
伝承では、若きチャンドラグプタは学者カウティリヤ(チャンキヤ)の後援を得て、マガダ国のナンダ朝に対抗する勢力を糾合したとされる。前322年頃にナンダ朝を倒すと、パータリプトラで即位し、属州統治と常備軍の整備に着手した。彼はガンジス流域の交易網と豊かな農業生産を掌握し、租税体系を再編して王権の財政基盤を強固にした。
セレウコス1世との講和と領土拡大
アレクサンドロスの後継政権の一つセレウコス朝の王Seleucus Iは、前305年頃にインド西北辺境へ進出したが、チャンドラグプタとの交戦ののち講和に転じた。講和ではアラコシアなどの地域がマウリヤ側に割譲され、見返りに500頭の戦象と婚姻関係が結ばれたと伝わる。ギリシア人使節Megasthenesはパータリプトラに滞在し、宮廷・都市・風俗に関する情報を『インディカ』に記したとされる。これにより、マウリヤ朝は北西辺境の回廊を確保し、インドとヘレニズム世界の外交・交易が制度的に接続された。
統治体制と行政
伝カウティリヤ『Arthashastra』は、チャンドラグプタ治下の統治理念と行政技法を伝える典拠として重視される。同書は王権を中心とする実利的政治学で、諜報・財政・司法・軍政の各部門を理路整然と説く。首都パータリプトラには複数の役所と監督官が置かれ、度量衡の統一、市場監督、治安維持が行われたとされる。以下に要点を列挙する。
- 財政:地租・商税・手工業課税など多様な収入源を法定化し、国庫を強化する。
- 軍事:歩兵・騎兵・戦車・戦象で構成される常備軍を維持し、辺境に守備隊を配置する。
- 司法:法(ダルマ)・勅令・慣習に基づく裁判を制度化し、官吏の汚職を監察する。
- 公共事業:道路・灌漑・倉庫を整備し、飢饉に備える。
- 情報:密偵網で内乱・反乱の兆候を早期察知する。
宗教観と晩年
伝承では、チャンドラグプタは晩年に王位を子のビンドゥサーラへ譲り、南方へ赴いてジャイナ教に入ったと語られる。カルナータカのシュラヴァナベラゴラで断食入滅(サッレーカナー)を遂げたという伝承は、中世碑文や地方伝承によって補強される。史実性の細部には議論が残るが、王権と出家理念の交錯は古代インド宗教史の特徴として注目される。
史料と歴史学上の評価
チャンドラグプタに関する一次資料は断片的で、ギリシア系記述とインド側の文献・碑文を相互批判しつつ再構成する必要がある。アショーカ(デーヴァーナンプリヤ・プリヤダルシン)の碑文は直接彼の名を挙げないが、王統譜や後代文献の突き合わせにより、マウリヤ王朝の系譜(チャンドラグプタ—ビンドゥサーラ—アショーカ)が一般に認められている。考古学ではパータリプトラ遺跡、北方黒色磨研土器(N.B.P.W.)文化の分布、柱頭・軒瓦などの素材から宮廷都市のスケールが議論されてきた。
グプタ朝の君主との区別
名称が同じため混同が頻発するが、グプタ朝のチャンドラグプタ1世(前4世紀ではなく4世紀の人物)およびチャンドラグプタ2世(ヴィクラマーディティヤ)は、時代も王朝も異なる。前者は北インドで台頭したグプタ王権の基礎を築き、後者は芸術・学術の保護で名高い。いずれもサンスクリット文化の隆盛と関わるが、チャンドラグプタ(マウリヤ朝創業者)はそれより約600年以上遡る統一者であり、アショーカへ連なる政治的基盤を形成した点に歴史的位置の差異がある。
年代と編年上の論点
チャンドラグプタの即位年は前322年頃、退位・没年は前298年頃とされるが、研究史上は数年単位の幅が存在する。これはギリシア系王年代記とインド側文献の齟齬、後代写本の異同、地域史料の偏在による。したがって彼の遠征・改革・外交の配列には再検討の余地が残り、セレウコス朝との講和年や割譲領の範囲にも複数の復元案が提案されてきた。
周辺世界との接続
チャンドラグプタ治世下で、北西インドはヘレニズム世界と陸路・海路で結びついた。インダス‐イラン方面からは馬・金属器・貨幣制度が流入し、ガンジス流域からは象・木綿・香辛料が外へ出た。宮廷への外国使節受け入れは情報と儀礼の回路を整備し、後継のアショーカ期に見られる広域的布教・勅令発布の前提を築いたと評価される。政治学的には、征服と制度化、外交と婚姻政策を結合した統合者としての姿が浮かび上がる。