スミソニアン協定
スミソニアン協定は、1971年12月に米国ワシントンD.C.で成立した主要国間の国際通貨合意である。金とドルの交換停止を契機に動揺した国際通貨秩序をいったん安定させるため、ドルの切り下げと各国通貨の平価調整、為替変動幅の拡大などを取り決めた。戦後の固定相場を前提とする仕組みを延命する「暫定的な再設計」として位置づけられるが、市場の圧力を抑え切れず、のちの変動相場への移行を早める結果にもつながった。
成立の背景
背景には、ブレトン・ウッズ体制の下で蓄積した構造的な緊張があった。米国の経常赤字と海外へのドル流出が続く一方、各国はドルを準備として積み増し、金との交換可能性に対する疑念が強まった。1971年8月、米国が金とドルの交換停止などを打ち出した、いわゆるニクソン・ショックによって、固定相場の前提が揺らぎ、各国は緊急の協調対応を迫られたのである。
交渉の枠組みと参加国
交渉は主要先進国を中心に進められ、当時の国際通貨運営を担ってきた枠組みを維持しつつ、実勢に合う平価へ修正することが狙いとなった。合意が「スミソニアン」と呼ばれるのは、最終局面の会合がスミソニアン博物館付近で行われたことに由来する。ここで確認されたのは、金本位制の復活ではなく、現実の資本移動と貿易不均衡を踏まえた、管理された秩序の再構築であった。
協定の主な合意事項
- ドルの対金平価の変更と、主要通貨の平価調整
- 為替相場の許容変動幅の拡大
- 各国が市場の安定に協力する旨の確認
為替レートの改定
協定の中心は、ドルの切り下げと、主要国通貨の対ドル平価の見直しである。象徴的なのが日本円の調整で、1ドル=360円の平価は1ドル=308円へ改定され、円は対ドルで約14.4%切り上げられた。これは、輸出競争力や物価、企業収益に直結するため、各国にとって国内政策の再調整を伴う大きな転換となった。
変動幅の拡大
また、従来の厳格な固定為替相場制の運用を緩めるため、為替の許容変動幅が拡大された。これにより、当局の介入で平価を守る負担を軽減しつつ、短期の需給変動を吸収しやすくすることが意図された。ただし、変動幅の拡大は「固定の堤防」を高くするというより、「あふれを織り込む水路」を設ける性格が強く、資本移動が急増する局面では十分ではなかった。
国際協調の確認
合意は、単なるレート表の書き換えにとどまらず、各国が国際収支の不均衡是正や市場安定のため協調する姿勢を再確認した点に特色がある。国際的な調整機能は本来、国際通貨基金などの枠組みとも結びつくが、協定は政治的意思決定の色彩が濃く、短期間で市場の信認を回復させることに重点が置かれた。
運用とその後の展開
協定後も、インフレ率や金利の差、資本の国際移動、貿易構造の違いが相場を押し動かし、各国当局の介入だけで安定を維持することは難しかった。市場では将来の再調整が意識され、投機的な資金移動も重なったため、固定相場の延命策としての効果は限定的となる。結果として、主要国は1973年頃までに実質的な変動為替相場制へ移行し、戦後型の通貨秩序は大きな節目を迎えた。
日本への影響
日本にとっては、円切り上げが輸出主導の成長パターンに修正を迫る契機となった。短期的には価格転嫁や収益構造の見直しが課題となり、企業は生産性向上や海外展開を通じて対応を進めた。為替の変動が経済運営の中心課題となり、円高局面への備えや、金融政策・財政政策と外部均衡の関係が強く意識されるようになる。国際通貨環境の変化が、国内の産業構造や企業行動の転換を促した点は、協定の波及として重要である。
歴史的位置づけ
スミソニアン協定は、戦後の固定相場体制が崩れる過程で成立した「最後の大規模な平価調整」として記憶される。制度を守るための合意でありながら、市場化と資本移動の拡大という時代の流れを完全には止められず、結果的に変動相場への道を開いた。その後も主要国は、為替の大きな変動が実体経済に与える影響を抑えるため協調を模索し、1980年代にはプラザ合意のような国際合意が再び登場する。こうした流れの起点の一つとして、スミソニアン協定は国際通貨史上の転換点を示す出来事である。