キタイ
キタイは中国東北部からモンゴル高原にかけて活動した契丹(きったん)系の遊牧・農耕複合の部族連合であり、10世紀に「遼」を建国して東アジア国際秩序の一角を占めた政権である。彼らは騎馬軍事力と柔軟な統治技術を併せ持ち、漢人社会・渤海遺民・渤海以東の諸集団・モンゴル系諸部を包摂して広域支配を実現した。宋との対峙・交渉(澶淵の盟)を通じて外交秩序を形成し、女真の台頭により本土を失った後も西走して西遼(カラ=キタイ)を樹立するなど、草原と農耕世界の結節点として長期に影響を与えた存在である。
起源と名称
キタイは漢籍で「契丹」と記され、唐末から五代十国期にかけて勢力を拡大した。族名は古くから遼西・松花江流域などに居住した騎馬民を指し、唐末の混乱を背景に部族連合が強化された。東アジア外では「Kitay」「Khitai」の形で流通し、ロシア語や中央アジア諸語では中国そのものを指す一般名詞として定着したことが、彼らの政治的・文化的インパクトの大きさを物語る。
遼の建国と展開
耶律阿保機が10世紀初頭に諸部を統合し、国家的枠組みが整備された。やがて国号を遼と改め、燕雲十六州を獲得して華北北縁に強固な防衛線と交易の窓口を築いた。遼は農耕地帯と草原地帯を跨ぐ複合国家として、遊牧機動力と城郭・州県統治を併用し、東北アジアの地政学を再編した。
二重行政と支配構造
キタイ国家の要は、被支配集団の多様性に適合した二重行政である。契丹本族・草原域を管轄する北面官と、漢人・渤海系住民の居住する農耕地帯を管轄する南面官を設置し、慣習法と文治官僚制を並立させた。これにより、移動性の高い遊牧社会と定住的な農耕社会の利点を同時に引き出した。
- 北面:部族会議・慣習法・機動軍団に基づく遊牧的統治。
- 南面:州県制度・科挙的選抜・文書行政による漢地統治。
軍事と外交
遼の軍事は騎射を核とし、重装騎兵と機動偵察を組み合わせた合成戦術を特徴とした。対宋関係では長期戦を避けて歳幣と国境安定を得た澶淵の盟(1005年)が画期であり、北辺秩序は交易・贈与を通じた相互依存の様相を強めた。一方で西北の党項(西夏)や東北の女真との緊張は持続し、女真の金が勃興すると遼の権威は急速に動揺した。
社会・経済
牧畜(馬・羊・牛・駱駝)と農耕(粟・麦・雑穀)の複合経済に加え、毛皮・皮革・海東青(鷹)・塩・馬などの交易品が財政を支えた。都城と草原路・河川交通を結ぶ物流網が整備され、宋銭の流通と手工業の発達が城下経済を活性化した。歳幣・互市により絹・茶・金銀が流入し、草原と都市の需要を媒介する市場構造が成立した。
文化・宗教
キタイの宮廷はシャーマニズム的祭祀を保持しつつ、仏教・道教を庇護した。陵墓や寺院の造営、碑刻・漆器・金属器などの工芸は、草原美術と漢地技法の融合を示す。葬制・服制には部族的伝統が色濃く、王権儀礼は遊牧起源の象徴体系と中華的王朝儀礼が重ね合わさった。
言語と文字
契丹語はアルタイ系に比定されることが多いが、詳細は未解明の部分が残る。公用文字として契丹大字・契丹小字が創制され、漢字文書と並行して用いられた。石刻・木簡・鏡銘などの資料は語彙・官制名・人名の解読手がかりを与え、複言語支配の実態を示す。
都市・空間と交通網
上京臨潢府をはじめ、中京・南京(燕京)など複数の都城を段階的に配置し、遼河・松花江流域や燕雲の関隘を抑えた。草原道・山地回廊・渤海湾沿岸航路を結合することで、軍団の迅速展開と物資の集散を可能にした。
滅亡と西遼(カラ=キタイ)
12世紀初頭、女真が金を建てて華北に進出すると遼は崩壊し、王族耶律大石は西走して中央アジアに西遼を建てた。ここでも二重行政や契丹系エリートの軍政は存続し、カラハン朝・ホラズムなどの勢力と並立した。東アジアの統治技術と草原の移動性を携えた政治文化は、ユーラシア中部に新たな結節点を形成した。
「キタイ」という語の広がり
キタイという民族名が、中国を指す一般名詞へと転用される現象は、国際交易・外交・文化交流のネットワークを通じて広がった。これは遼と西遼の時代に契丹勢力がユーラシア規模で可視化された結果であり、名称の地理的拡散自体が中世の「情報インフラ」を映し出す。
年表(概要)
- 10世紀初頭:耶律阿保機が部族を統合し国家形成
- 10世紀中葉:国号を遼に改め、華北北縁に進出
- 1005年:澶淵の盟で宋と国境安定・歳幣関係を確立
- 12世紀初頭:女真の金が勃興、遼は崩壊
- 12世紀前半:耶律大石が西遼(カラ=キタイ)を樹立