イラン=ロシア戦争|南カフカス支配を争う戦争

イラン=ロシア戦争

イラン=ロシア戦争は、19世紀前半にカージャール朝イランとロシア帝国とのあいだで生じた、主としてカフカス支配をめぐる二度の戦争の総称である。第一次戦争(1804〜1813年)と第二次戦争(1826〜1828年)からなり、いずれもロシアの勝利に終わってイランは広大な領土を失い、不平等な講和条約を受け入れざるをえなかった。この戦争は、近代イランの主権喪失と対欧関係の出発点として、中東史・ロシア史・国際関係史の上で重要な位置を占める。

歴史的背景

18世紀末、イランではカージャール朝が建国者アーガー=ムハンマドによって国家統一を進め、首都テヘランを拠点に再び王権を確立しつつあった。一方、ロシア帝国はピョートル大帝以来の南下政策を継承し、黒海・カスピ海方面への進出を強めていた。とくにジョージア(グルジア)の保護国化と併合を通じて、南コーカサスやカフカス地方への支配を固めつつあり、イランが伝統的な宗主権を主張する諸侯領とロシアの勢力圏が鋭く衝突した。さらに、オスマン帝国もこの地域で影響力を維持しており、3つの勢力が複雑に競合するなかでイラン=ロシア戦争が勃発した。

第一次イラン=ロシア戦争(1804〜1813年)

第一次イラン=ロシア戦争は、ロシアによるジョージア併合と、それに対抗するイランの反発から始まった。イラン側では王太子アッバース・ミールザーが近代式軍隊の整備を進め、ヨーロッパ式の砲兵・歩兵を導入してロシア軍に対抗しようとしたが、装備・訓練・財政力の差は大きく、戦局は次第にロシア有利に傾いた。戦闘の主戦場はカラバフやグルジア一帯など南コーカサスに集中し、イランは持久戦のなかで兵站と財政が限界に達した。1813年、最終的にイランはロシアとの間でギュリスタン条約を締結し、グルジア、ダゲスタン、カラバフなどカフカスの諸領をロシアに割譲することを余儀なくされた。

第二次イラン=ロシア戦争(1826〜1828年)

第一次戦争の講和条件、とくに領土割譲に対する不満はイラン宮廷と宗教勢力のあいだで根強く、ナショナルな名誉回復を求める声が高まった。こうした空気のなかで、1826年に第二次イラン=ロシア戦争が勃発する。イラン側は南カフカスでの失地回復を目指して攻勢に出たが、ロシア軍はより近代化された装備と組織を背景に反撃し、再び戦局を支配した。1827年にはロシア軍がエレヴァン(エレバン)など要衝を占領し、イラン側は講和を求めるしかなかった。1828年、両国は講和条約であるトルコマンチャーイ条約を結び、イランはエレヴァンやナヒチェヴァンを含む南カフカスの広大な領域をロシアに割譲した。

トルコマンチャーイ条約とイラン社会への影響

トルコマンチャーイ条約は、領土割譲に加え、イランにとってきわめて不利な不平等条約として知られる。同条約では、イランは巨額の賠償金をロシアに支払うこと、ロシア臣民に治外法権(領事裁判権)や関税上の特権を認めることなどを約束させられた。これによりイランの財政は深刻な打撃を受け、王権は国内徴税の強化や貸付依存を通じて社会的緊張を高めることとなった。屈辱的な敗北と経済的従属は、ウラマー(イスラーム法学者)や商人層のあいだで王朝への不信を強め、のちの改革要求や宗教運動の土壌を育てたとされる。19世紀半ばに登場するバーブ教や、その急進的展開であるバーブ教徒の反乱、さらにその開祖サイイド=アリ=ムハンマドの活動も、こうした対外的屈辱と内政の行き詰まりという文脈の中で理解されることが多い。

国際関係史における意義

イラン=ロシア戦争は、イラン一国の敗北にとどまらず、19世紀ユーラシア国際秩序の形成に大きな影響を及ぼした。ロシアは南カフカスとカフカス地方の支配を固めることで黒海・カスピ海間の回廊を掌握し、オスマン帝国やイランに対する軍事・外交上の優位を確立した。他方、イランはカージャール朝期を通じて領土喪失と財政難に苦しみ、イギリスとロシアの勢力均衡に翻弄される「半植民地」的地位へと傾斜していく。こうした構図は、のちの立憲革命や近代化運動にも深く影響を与え、イラン近現代史を理解するうえでイラン=ロシア戦争が不可欠の事件であることを示している。